NO RAIN NO RAINBOW 3


「忙しいのか? 梅原んとこは」
「現場が頑張ってくれてるけどね、国内はなかなか根本的な売上には繋がらん」

 ここでの現場とは今までの顧客への挨拶回りを指す。
 営業は【足】で稼げ。
 歩いて歩いて頭を下げて現状を把握しろ。顧客の置かれた立場と心を掴め。名刺はあくまでも切っ掛けに過ぎない。肩書きに溺れるな。
 売っているのは車という商品ではなく、会社のイメージと営業マンひとりひとりの心意気だ。

 創業者の言葉を徹底的に叩き入れた部下たちが、蒸し暑い季節に必死に歩き回っても、この売上の落ち込みに決定的な歯止めがないことがもどかしい。

「世の中、情報力を持ったほうが勝ちなのかね? 地道に誠実に社会に貢献してきた我社も、アメリカのやり方には辟易するよ」
「確かにな。あれは明らかな潰しだよな」

 やれ、エンジンに不具合がある。ハンドルに問題がある。従業員を優遇しないと騒いでストを起こし、事故が起きたのは車のせいだと裁判を起こす。
 それを大々的なニュースにしてネットに流し、世界的なリコール問題へと広げていく。日本の誇るT社には失望した、誠意ある対応をしろ…なんだろうね、これは。

「国内の顧客から苦情が来たことはほとんどないんだよな。エンジントラブルだってただの一度も起きてない」
「情報操作…か」
「でもさ、もっと嫌なのはそういうやり口に対抗できない日本の体制だっての」

 やや興奮気味にまくし立てた梅原に、原田は穏やかな目差しを向けた。

「なんだよ原田、なに笑ってんだよ」
「いや俺さ、忘れてたなって思って」
「なにを?」

 梅原は向かい合わせに座った自分よりもややガタイのいい原田をねめつけた。

「俺さ、お前のそういう泥臭いところが好きだったんだよなって」
「…泥臭いってなんだよ」
「あはは、泥臭いっていうか、汗臭いっていうのかな。いつもまっすぐでさ、一生懸命なとこ。変わんないよな」

 何か懐かしいものでも見るように目を細め、原田は煙草の煙をプカリと吐き出した。

「そこが好きだったのにな。近寄りすぎて見えなくなってたんだな」
「…原田」

 途端に訪れたしんみりした空気に梅原は戸惑った。いつも胸を張って堂々と振る舞う原田らしからぬ雰囲気だ。

「人間関係の距離感ってのは微妙なんだな。俺たちはさ、梅原。恋人の距離じゃ駄目なんだろうな。友人とか同僚くらいがさ、ちょうどいいんだ。今、わかったよ」
「原田、俺は今でもお前が…好き、だよ。変な意味じゃないけどさ」
「ああ、わかってる…わかってるよ」

 嫌いあって別れたわけじゃない。
 どうしようもなくお互いがぶつかってしまうから、距離を取ったというのが正解だ。
 久しぶりでもこうして顔を合わせれば、胸の奥に何とも言えないちりちりと焦げる火種のようなものを感じる。
 それが愛なのか恋なのか、はたまた単なる性欲や独占欲なのかわからないけれど。

 梅原は原田の体のラインに沿って視線を動かした。
 太い首筋。硬い筋肉に覆われた肩や腕。広い背中や引き締まった腰。長い手足。繊細に動く指先。
 決して忘れはしないが、もうその感触も遠く過ぎてしまったのだと改めて思った。

「梅原」
「…ああ」
「お前に会えて良かったよ」

 止まった時間を断ち切るように、原田は大袈裟な仕草で腕時計を見やった。そして「もうこんな時間か」とわざとらしく呟いて立ち上がった。

 梅原は去ろうとするその広い背中に声をかけた。

「原田」
「ん?」
「ありがとな」
「…ああ」

 原田は短く答えると、振り向きもせずにドアの向こうへ消えていった。
 梅原はしばらくの間、その場から動くことはなかった。


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