体内時計 3


 あの日、琴子は北海道に嫁いだ友達のところへ遊びに行くと言って、朝早くから泊まりがけで出かけていった。
 その間、ひとりでつまらないからと弓彦に食事に誘われて、音弥は何の気なしにそれに応じていた。

 …そんな気はなかった。
 断じてなかったのだ。

 けれどレストランで向かい合わせに座った時、久々にふたりきりだという事実に気がつき、途端におかしな気分になってしまったのだ。
 それは弓彦も同じで、下心などなかったはずなのに、いざ音弥の顔を真正面から見た瞬間、隠していた欲望がゾクリと腹の下から沸き上がる心地がしたのだ。

 そして、翌日の朝早く。二人はホテルで琴子の事故死を知ることになった。
 何故かひとりでレンタカーを借りて湖の畔りまで行き、そのまま車ごと湖に落ちたのだ。
 辺りにブレーキ痕はなかった。自殺ではないかと疑われたのだが、特定できる証拠も状況もなく、程なく事故死として処理された。

 死亡推定時刻、午後8時〜9時。
 音弥と弓彦がエレベーターの中で緊迫した時間を過ごし、柔らかな絨毯に足を取られながら、縺れるようにドアの向こうへなだれ込んだ時刻だ。
 離れていた時間を埋めるようにお互いを貪り始めていた時、琴子は遠い北海道で湖の底に沈んだのだ。

 幸せを願ったはずなのに。裏切らないと誓ったはずなのに。なんて醜いふたりだろうか。
 その後、音弥は名古屋から逃げた。けれど、どこへ逃げても自分からは逃げられないのだと、鏡の中から姉が訴えてくる。逃げても逃げても、家族という縛りからは一生逃れられないことを音弥は嫌というほど知った。


「今日は泊まっていかないんだろう?」
「これでも忙しい身でね。明日も本当は休みなんだけど、午後から出なきゃならないんだ」

 音弥はにっこりと笑顔を作ってみせた。上手く笑えているだろうか。今、とても充実しているんだとアピールできているだろうか。
 音弥は携帯で時間を確認すると、会社用にお土産を買うからと席を立った。
 弓彦は駅の中まで見送りをしたいと言って、音弥の買い物に付き従った。

「やっぱり、海老せんかな〜」

 ずらりと並ぶお土産を二人で眺めながら、音弥が小さな箱に手を伸ばそうとした時だった。
 ふいに弓彦が音弥の右腕を、グイと掴んだ。

「な、…」

 思わず音弥が弓彦を振り返ると、弓彦は更に力を込めて、苦しそうに目を細めて、

「…音弥」

 と、名前を口にした。


「音弥、もう、いいんじゃないかな」
「な、…に、が?」

 声が震える。
 名前を呼び捨てにされて、音弥は気が動転していた。名前を呼び捨てにするのはあの時だけ。ベッドの中だけの呼び方だ。

「十三年だ、音弥。十三年だよ。僕たちはもう…」


 許されてもいいんじゃないか?


 言葉は続かず、弓彦の喉の奥に飲み込まれていった。
 掴まれた右腕が熱かった。音弥は目を閉じて、人知れず息を飲んだ。


 あの日止めたはずの時計が、また動き出す。
 音弥は目眩を感じながらも、腕を振り払うことができずにいた。

 新幹線の出発時刻が、もうそこまで迫っていた。


【Fin】


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