体内時計 2
初めて弓彦と出会ったのは、音弥が大学二回生にあがったばかりの頃だ。
外資系商社に勤める三歳上の姉が、同じ職場の恋人だと言って家に連れてきたのが最初だった。
ひょろりとした体つきに長い手足。どこかで見たことのある草食動物のような風貌に両親はすぐに気を許したのだか、音弥は穏やかに見える茶色の瞳の奥に自分と同じものを感じていた。
それは見た目とは正反対の野獣の邪眼。オスの肉食獣の匂い。ほんの一瞬、目を合わせただけだけで、お互いの本当の姿を見抜いていた。
男の横で薔薇色に頬を染めて微笑む琴子は全く気づいておらず、音弥はこの素直な姉のためにも見て見ぬふりをしようと決めたのだが…。
事あるごとに、意味深に、触れる指先や言葉、耳元で囁く吐息に堪らず陥落してしまった。
いや、本当は……
音弥は軽く頭を振った。
本当は出会った瞬間に惹かれていた。それは「お互いに」だ。
こっそりと隠れて逢瀬を重ねるスリルと快楽に溺れて、音弥は自分の立場を忘れつつあった。
大切な姉。弓彦は姉の恋人。自分は弟にすぎないという事実。
出会ってから一年後に琴子と弓彦は婚約し、つつがなく結婚式を向かえた。
悲しくないといえば嘘になる。けれど…裏切り続けたけれど、やはり姉が大切だ。かけがえのない家族の幸せを願いたい。
そう思いながらウェディングドレスの白さに目頭を押さえ、もうこれきりだと心に誓ったのは遠い昔のことだ。
フロントガラスに映る顔は姉に良く似た色白のうりざね顔。ふざけてカツラを被れば双子のようにそっくりな姉弟だった。音弥は鏡の中の姉から逃げることは叶わず、ずっと責められているような年月を過ごしてきたのだ。
滑るように車がお寺の門脇に走り込み、静かに停まった。
濃い緑とずらりと並ぶ墓石の荘厳さに、いやらしい自分はそぐわないような気持ちになる。
弓彦は前もって連絡を入れていたらしく、お寺の事務所のようなところへ向かうと、一対の供花と桶、柄杓にお線香を手にして戻ってきた。
「水、汲んできますよ」
「あ、ありがとう。お願いできる?」
音弥は弓彦から桶を受けとり水汲み場へ足早に歩いていった。桶を受けとった時、微かに弓彦の指先が触れて息がつまった。
勢いよく水を出しながら、触れた右手を流れる水に突っ込む。そこに残る淡い感触を洗い流したかった。
「琴子が逝ってもう十三年だね。おと君と会うのも六年ぶりだけど、君は変わらないね」
ふたりきりの墓参りはあっという間に終わってしまって、再び車に乗り込むと名古屋駅近くのビル内で食事をとった。
姉と弓彦と三人でよく来た味噌カツの専門店で、姉はことさら赤味噌が好きだった。
暑い日にカツなんてと思いながら、これも供養になるかもしれないと音弥はおとなしくカツにかぶりつく。
「仕事はどう?」
「それなりだよ」
決まりきった台本を読むような会話だ。演じる役柄は優しい義兄と真面目な弟。
六年前も同じだったような気がする。
肝心なことは口にできず、お互いの心のドアをノックすることは避けていた。
【ひとりは寂しくない?】
【恋人はいるの?】
訊きたくても訊けない言葉。訊いてしまえば、ボロボロと心が壊れてしまう。
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