体内時計 1


 音弥は姉を「琴子さん」と呼び、琴子は弟を「音弥さん」と呼んでいた。
 そんなふたりの間に立っていた彼は、仲の良かった姉弟をどう思っていたのだろうか。


 音弥は窓の向こうに流れていく街並みをぼんやりと眺めながら、これから顔を合わせる人物の声を思い返していた。

 彼から「おと君」と名古屋訛りで優しく呼ばれるのが好きで、音弥も彼を「弓彦さん」と呼び返していた。
 決して「義兄さん」とは呼ばなかった。いや、呼びたくなかったというのが正解だ。


 大学を卒業してから、逃げるように東京で就職したというのに、東京駅から名古屋までは新幹線であっという間に着いてしまう距離で。
 そんな距離でもあの日の自分には精一杯の逃げだったのだと、今更ながら音弥は痛感している。


 駅に降り立つと晴れ渡る青空に、にょっきりと生えたツインタワーが見えた。
 喉元を締める黒いネクタイに窮屈さを感じながら、名古屋駅周辺も随分と変わったなと音弥はため息をつく。
 駅出口に程近い待ち合わせスポットの【金の時計】に近づくと、こちらに気づいて右手をあげる男性の姿があった。

「おと君、久しぶり」
「…弓彦さん」

 小走りに近寄ってきた黒いスーツは、駅の中ではやはり悪目立ちしてしまう。
 普段、袖を通すことのない喪服は、嫌な思い出を心の奥底から掘り返すものでしかないから。

「迎えにこなくても大丈夫なのに」
「いや、僕が迎えに来たかったんだから遠慮しないで」

 相変わらずの穏やかさで、こちらの戸惑いも焦りも鮮やかにさらっていく、この人が憎らしい。
 弓彦は駅前に停めてあった車に乗り込み、音弥もそれに続いた。
 一瞬、助手席にしようか、後部座席にしようかと迷ったが、変な勘ぐりを持たれるのも嫌で、音弥は昔のように助手席に座った。

 目指す場所は姉が眠るお寺だ。

「こっちは暑いだろ?」
「あ〜、東京も変わらないよ。ヒートアイランド現象だっけ?アスファルトだらけのとこは、みんな暑いよ」

 何てことのない会話。
 あの日から繰り返されてきた上滑りな言葉の羅列だ。
 ちらりと伺う横顔は、出会った頃なら何ひとつ変わっていないように見えた。

 若くして奥様を亡くしたなんて可哀想なひとね。子供がいなかったのが幸いよ。若いんだからいくらでもやり直しができるわよ。でも何でひとりであんな所へ?溺れたんでしょう?

 皆、勝手なことを言う。
 涙を流して見せては、コソコソと亡くなった姉のその顛末を面白おかしく語り合う姿は醜いのひと言だ。
 いや、一番醜いのは、自分の欲望を抑えきれなかった自分だ。
 しめやかに葬儀が執り行われる間、音弥は白い花で飾られた額縁の中で微笑む姉を見上げながら、じっと唇を噛みしめていた。

 自分と、いま爽やかな顔をしながら車を運転するこの男が一番醜かったのだ。
 誰も知らない事実。それは誰にも知られてはいけない事実だった。


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