僕に光をくれるひと 11
◇◆◆
月日が流れるのは、なんて早いのだろう。
吹く風に秋の気配を感じて、悠介は病院のエントランスで足を止めた。
夏の間、ずっと病院内で過ごしていた身体は、空気の変化に馴染めず微かな違和感がある。
筋力が落ちたかなとも思う。
もっと歩いて体力をつけなくちゃ…なんて、以前には思いもしなかったことだ。
手術を受けると決めてからの日々は、変な言い方かもしれないが充実していた。
検査検査の毎日で疲れを感じることもあったが、腹をくくってしまったからにはやるしかなかった。
「左目は水晶体がダメになっているから、人工水晶体を入れよう。右目は大丈夫。角膜だけで。いきなり完全に見えるようにはならないけれど、少しずつ視力は戻る可能性があるからね」
ビクビクと怯えながら、説明を受けた日が懐かしい。
角膜提供者が見つかってからは、あっという間だった。
包帯を外されて初めて見たものは、笹木先生の指だった。
「何本に見えますか?」
「…に、2本?」
「うん、見えてるね」
後ろでうわっと泣き出した母親の顔を見たのは何年ぶりだったろうか。
良かったと肩を抱き寄せた父親のぬくもりを感じたのは何時ぶりだったろうか。
いつも傍にいたのに、全てを初めて感じるような不思議な感覚だった。
リハビリの日々を過ごして、悠介は今日退院を迎えた。
裸眼はまだ無理とサングラスをかけ、その足元はまだ覚束なかったけれど、白仗なしで歩くことには慣れつつあった。
空が青い。
白い雲が風に吹かれて、ゆったりと動いている。
乾いた風がくるくると落ち葉を巻き込んで、吹き抜けていく。
当たり前にある、当たり前の光景を、悠介は身体いっぱいに受け止めていた。
秋の風が涼やかなのも知っていたし、秋の空が高く見えることも知っていた。
けれど光を取り戻した目には、どれもこれもキラキラと輝く美しいものに変わっていた。
記憶の中にある秋とはまるで違うものだった。
悠介は深呼吸をすると、止めていた足を再び動かし始めた。
すると、胸のポケットで携帯が軽やかに鳴り始めた。
慌ててフラップを開けると、そこに『成瀬』の文字があった。
手術を受けると決めてから、成瀬の仕事が多忙になり会う機会を失っていた。
電話は出来る限りかけて、声にすがり付いた。
悠介と成瀬は、今日、数ヶ月ぶりに顔を合わせる。
いや、正しくは初めてお互いの顔を確認することになるのだ。
悠介は高鳴る胸を押さえながら、ゆっくりと電話に出た。
「もしもし、悠介?」
「…成瀬さん」
「退院おめでとう。もうそろそろ病院に着くからね。入り口で待ってて」
「…はい」
上手く話せるだろうか。
悠介は何度も何度も、わざわざありがとうございますと、口元で練習してみた。
ザリッと車のタイヤが走り込んでくる音が聞こえて、悠介は俯いていた顔を上げた。
白いボディに青いラインが鮮やかなタクシーが、エントランスに滑り込んできた。
そして悠介の目の前で停まると、スーツ姿の背の高い男性がゆっくりとドアの向こうから降り立った。
「悠介」
男性は柔らかに笑うと悠介の名を呼んだ。
見下ろしてくる瞳の奥に、悠介は自分の姿を見た。
「成瀬さん」
伸ばした指先が、もう少しで成瀬に届く。
涙で光る悠介の瞳に、成瀬の姿が映っていた。
【Fin】
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