僕に光をくれるひと 9


◇◆◆

 雨が降っていた。
 じんわりと湿った空気が梅雨の前触れを思わせる。


 悠介はひとり電車を乗り継ぎ、いつもお世話になっている笹木の元へ急いでいた。
 結局、自分ひとりで考えていても頭がこんがらがるばかりで、どうにも答えが出せない。
 お話がしたいと、いきなり電話した悠介に笹木の声は穏やかだった。ひとりで悩む必要はない。その為に医者がいるのだからと、受話器の向こうで優しく微笑んだのがわかった。

 笹木がいつも待機している部屋に入る。
 診察室とは違う、革と木の匂いがした。ここは多分、応接室だろう。
 身を固くする悠介の前に、温かな紅茶の香りが立ち上った。

「お砂糖、いれるかい?」
「あ、はい。ありがとうございます」

 カチャカチャとスプーンの金属音して、紅茶に甘い香りが混じる。
 ひとくち運び、染み込む甘さに悠介は自分が酷く緊張していたことに気づいた。

「悠介くんは何が好き?」
「え、」

 いきなりの質問に戸惑う。

「ああ、質問の仕方を変えよう。悠介くんは好きなものはある?」
「あ、はい、あります」

 ふと、成瀬が頭をよぎった。
 笹木は一体何を話そうとしているのだろうか。
 悠介がここに来たのは、自分が角膜移植を受けるかどうかについて、客観的な意見が欲しかったからだ。
 結局は、自分で決めなければならないとわかっている。けれど、どうしても躊躇してしまう自分と、受けて欲しいと願う成瀬との間で揺れ動いてしまうのだ。


 有名な人の言葉に「迷うならやめろ」という一説がある。確かに一理あると思う。けれど「迷う」という行動に大切な何かが隠れているような気がしてならない。
 悠介は自分が本当はどうしたいのかが、わからなくなっていた。
 成瀬さんの顔が見たかったはずなのに。

 何故、迷う?

「好きなものは自分を楽しくしてくれる。好きなものが増えると、さらに楽しくなるよね」
「はい」
「私はね、悠介くん。世の中のたくさんの人達に、人生を楽しんで貰いたいと思っているよ。だから医者になったんだ」

 医者と看護士の間に生まれて、迷わずこの世界に飛び込んだ。幼い頃は両親が忙しすぎて寂しい思いもしたけれど、苦しんでいる人達が晴れかに退院していく姿にこの仕事の素晴らしさを感じている。
 偽善に聞こえるかもしれないが、誰かの幸せを願う時こそ自分の幸せを感じると笹木は静かに語った。

「先生、先生の好きなものって…」

 悠介は逆に聞き返した。
 そして、思いもよらぬ言葉を返されたのだ。

「私の好きなもの?」
「はい」

 笹木は悠介の耳にしっかり聞こえるように、その言葉だけを強めに言った。

「私の好きなものはね、悠介くん、『自分』だよ」


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