夢はブラックエプロン
大学に通いながら、横浜駅に近いコーヒー・ショップでアルバイト。
初めての接客業は自分でも意外なくらいに面白く、1年を過ぎた頃には就職先にしても良いと思うほどにまでになった。
軒並み潰れていく外食産業のなかでもコンスタントに売上を伸ばし、若い世代に受け入れられているカフェ・チェーンだ。
なくなるということはないだろう。
アルバイトは緑色のエプロン。
社員は渋いブラウン。
そして社員でありながらバリスタ資格を持ち、更に指導者として優秀な人間しか着けることを許されないブラックエプロン。
いつか俺もブラックエプロンを…と思うようになったのもごく自然な流れだった。
バリスタを始めとして、料理人やパティシエなど食に関する職業に男性が多いのは何故か?
実際に働いてみればわかることだ。
大量の食材をさばいていくのには、大きな手や力のある腕の方が楽だから。
大きくて重い鍋や、食材の詰まった段ボールは、持ってみなければわからないほどの強烈な重さだ。その上、業務は立ちっぱなしの体力勝負。
女性を差別するわけではないが、小さな手足では体がツラくなるだろうと思う。それでも勿論、頑張っている女性はたくさんいるけれど。
だから…というわけではないけれど、接客の面白さに目覚めて、体力的にOKな自分にはなかなかの働き口だと思ったのは確かだった。
そして、3年目に突入した秋口に店長の推薦を戴いて就職が決定。エプロンは緑からブラウンに変わり、売上ベスト10に入る東京の店舗に研修に行くことになった。
そして、そこで梅原さんに出会った。
穏やかに笑いながら、しっかりと人の目を見て話すひと。
必ずありがとうと言うひと。
ごちそうさまとひと声かけて店を後にするひと。
たった1週間の研修で、自分は優秀なんだという傲慢な考えを改めることになった。
お客様こそがお店の雰囲気も在り方も決めていくのだと知り、襟を正す心地がしたのも今となっては良い想い出だ。
生意気だったのだと思う。流行りと若さと要領の良さに溺れてイイ気になっていただけだ。
だから、梅原さんとの出会いは本当に大切なものになった。
「こんにちは」
「いらっしゃいませ」
「ありがとうございます」
当たり前に挨拶できる嬉しさ。
美味しいと喜んで貰える嬉しさ。
またね、と笑顔をくれる嬉しさ。
早くブラックエプロンを着ける立場になりたい。
もっともっとお客様に喜んで貰いたい。
だから僕は今日も鏡に向かって笑顔の練習をするのです。
背筋を伸ばして、にこやかに。顔の筋肉を程よくほぐしたら店内へ。
カウンター内に立ち、息を吐いて。
ポケットにはあの日戴いた名刺をお守り代わりに。
ほら、ドアが開く。
「いらっしゃいませ、ご注文をどうぞ」
(短編小説「NO RAIN NO RAINBOW」より)
[*前] | [次#]
[目次]