鏡の中の男 2


 お目当てのジーンズ屋に向かっていた途中のことだ。
 いきなり後ろから声をかけられた。

「あの、すみません。お時間、よろしいですか?」


 ふり返ると、スラリとした綺麗めの男性が柔らかく微笑んでいた。
 訳もわからずふたりして首を傾げていると、その男性は名刺を差し出しながらこう言葉を続けたのだ。


「ヘアサロンのカットモデルに興味はありませんか?」


 それから何をどう話してヘアサロンまで行ったのかは忘れてしまったけれど、ガラス張りのお洒落な店舗でお茶を戴きながらモデルの話を受けたのが、この業界に入るきっかけになったのは確かだ。
 良紀のほうはカット代が無料になるのが嬉しかったらしいのだが。


 広々とした通りに面したガラス張りの外観が目を引くヘアサロン「STAGE-A」。
 従業員の誰よりも早く店舗に出勤して目の前にある鏡を磨きあげながら、裕一郎はあの日を思い返していた。
 キラキラと光りながら自由自在に動くシザーを鏡越しにじっと見つめていると、カットを担当してくれた男性がとても丁寧な口調で裕一郎に話しかけてきた。

「面白いでしょう?」
「はい。何か凄いです。生きてるみたい」
「あはは、キミの言う通りだ。シザーは生きてるんだよ」

 男性はクスクスと笑いをこぼしながら「キミにも出来るよ」と秘密でも教えるように耳元で囁いた。

 頭の中で何かがパチンと弾けたような心地がして。
 今にして思えばあれは魔法の言葉だ。迷っていた心が一気に走り始めた瞬間だった。
 絵画とは全く違う自己表現の方法として、ヘアスタイリストの道を邁進するきっかけを与えてくれたのだ。
 そしてその時仕上がった髪型もすこぶる評判が良く、気恥ずかしく思いながらも走り始めた気持ちを後押ししてくれたことも確かだ。



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