たかが紙切れ1枚 1
カシャリと鍵を開ける音がして、小さく「ただいま」と呟く声が聞こえる。
その声はリビングには顔を見せずすぐに自分の部屋に入ると、次にはお風呂へ飛び込んでしまう。
そうしてのろのろとお風呂からあがると、大してこちらのほうも見ずにそそくさと食事をとると、また自室へ逃げるように籠ってしまう。
裕一郎がおかしい。
昨夜からぼんやりしたかと思えば、俯いて何か必死に考え込み食事の手が止まる。
「どうしたの?」と声をかければ、「何でもない」と慌てたように食事を掻き込み、またしばらくすると今度はため息をつく。
明日は折角の休みだというのに、裕一郎は何をそんなに悩んでいるのだろう。
良紀はソファーで薄らぼんやりしている裕一郎を尻目に、洗濯を始めることにした。
休みにしては珍しく朝の8時に目が覚め、窓を開ければ爽やかな空気に晴れ渡る青空が見えた。
今日は大物を洗うかとベッドから大きな躯を追い出すと、シーツや枕カバーを剥がし洗濯機へ投げ込む。
そして、コーヒーメーカーをセット。洗濯機を回している間に軽く部屋に掃除機をかけて、まだしっかり目が覚めきっていない裕一郎に淹れたてのコーヒーを差し出す。
「あ、ありがと」
両目をショボショボさせて裕一郎は愛用のマグカップを受け取った。
白地に鮮やかな赤の縦ラインの入った北欧ブランドのものだ。良紀の手には同じブランドの色違いが握られている。
朝からの煙草を卒業してから目覚めの良くはない裕一郎に、良紀はこうして毎朝コーヒーを飲ませるようになった。
即効性があるわけではないが、しばらくすればカフェインが効いて眠気が覚めるのは確かだ。
「あのさ、何かあった?」
「ん〜、美味し」
「話を聞けよ。昨日から明らかにおかしいんだけど、態度が」
「…ん」
「何か心配事? 仕事のことはわかんないけど、何かあった?」
「ん〜…んん」
裕一郎はあやふやな返事をすると、言いにくそうに俯いてしまう。
そんな態度にため息をつきながら、良紀は静かに裕一郎の隣に腰を下ろした。
広めの2LDKの部屋にゆったりとコーヒーの薫りが漂う。掃除したばかりのフローリングの床は窓から射し込む陽光を反射して、白い壁をいっそう明るくしていた。
ドアを隔てた向こう側から洗濯機の動く音が聞こえてくる。外からは車が走り去る音が微かにふたりの耳を掠めた。
「昔からさ、ユウは困ったことがあると1人で抱えて悩むんだよな。俺って頼りないかな。それとも俺には話したくないとか?」
良紀はわざと語気を強めて言葉を投げた。
これくらい強気でいかないと裕一郎はなかなか本音を話さないのだ。繊細というべきなのか、それともただ単に頑固なだけなのか、裕一郎が貝のように口を閉じてしまうと家の空気が悪くなるし、仕事にも多少影響が出るようなので、ここは無理矢理でも閉じた口をこじ開けてやる。
「俺って信用されてないのかな。それとも、もう好きじゃないとかさ〜」
「そんなことない」
「それじゃあ、好き?」
「好き」
「愛してる?」
「あ、…愛してる」
「俺もユウが大好き。愛してる」
マグカップを目の前のガラステーブルに置いて、良紀は裕一郎の首根っこに、ぎゅうっと抱きついた。
裕一郎の固い表情が一気に崩れて、いつもの甘く優しい眼差しが戻ってくる。
「何があったか話して?」
上目使いの良紀の声も裕一郎の耳元で甘ったるく響いた。
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