まどろみはにかみ


 瞼の隙間から入り込んでくる光が眩しくて目を覚ました。いつもの天井、いつもの時間。でも一つだけ違うものが視界の端をチラついて、私は思わず彼の名前を呼んでいた。

「し、魈ーー!」

 家に響き渡るくらいの大声で彼の名を呼ぶと、辺りに風が立ち込める。輪郭を縁取るみたいに緑色の光が集まり、気が付けばその場に彼、魈が現れた。

「どうした!?」

 部屋の隅で震える私を見つけると、魈は何処からか槍を取り出し辺りを警戒する。私の前に立ち塞がり辺りを睨み付ける魈の足にしがみつくと、魈が狼狽えるのが分かった。

「っ、何があった」

 私を見下ろす魈の顔が薄っすら赤く染まっているが、今はそれどころじゃない。魈を呼び出す事の原因となったものをゆっくり指差すと、真剣な顔をしていた魈の顔が、力の抜けたものとなる。

「む、虫…!」

 私が指差す先には、足がやたら多く長い大嫌いな害虫が壁に張り付いていた。ううっ、気持ち悪い!直視できず、薄目を開けて虫がどこかへ逃げて行かないか確認していると、魈は持っていた槍をくるりとひっくり返して柄の先で虫を床にはたき落とした。

「いやああああ!」

 魈は虫を拾い上げると裏口を開けて外へと放り投げた。よ、良かった…どうなる事かと思った。胸を撫で下ろしていると、くるりと振り返った魈の顔がまるで腰に付けている仮面のような顔になっている事に気付いた。

「あれ?怒ってる?」

「当たり前だ!何かあったら呼べとは言ったが虫如きで我を呼ぶとは良い度胸をしているな」

「…ごめんなさい……あっ、杏仁豆腐食べる?」

「…お前はそれを言えば良いと思っているだろう」

 悪態をつきつつも、魈はその場にドカリと胡座をかいて座った。常に作っておいてある杏仁豆腐を皿に盛って魈に渡すと、慣れた手つきでそれを受け取り口へと運ぶ。
 あの一件以降、魈は毎夜私の夢の中へと現れてくれて悪夢を祓ってくれる。毎日同じ夢を見ると、悪夢であろうと慣れてくるもので、よく登場する大きな蛇のような魔神もミミズくらいの脅威しか感じないようになるものだ。しかし、魈の戦いは続く。意地を張って姿を見せないのではと心配していたが、怪我を負うと不機嫌そうな顔をしながらも渋々私の治療を受けに来てくれるようになった。けれど、深く染み付き彼を苦しめる業障を取り除く事は私にはできそうにない。文句を言いながらも些細な事で呼び出しても駆け付けてくれる彼に何か恩返しはできないものかと考えていると、空になった皿を魈が差し出した。

「あっ、おかわりいる?」

「良い。我は行く」

 魈は立ち上がると、床に置いていた槍を足で蹴り上げて手に取った。おお、と私が小さく声を漏らすと、魈はチラリと私を見た。

「また来る」

 私が返事をする前に魈は姿を消した。彼の残した「また来る」という言葉に口角がゆるゆると上がっていく。生まれ故郷であるモンドを離れ、璃月で一人暮らしをする私の生活は魈が来てくれるようになってから一変した。いざという時に頼りになる人がいるというのは本当に心強いものだ。先程チラリと脳内をよぎった彼への恩返しをやはり決行すべきだと思い私は出掛ける準備をした。



 業障に蝕まれ、強大な力を使う度に苦痛を感じる魈。彼は人間ではなく仙人だが、人間である私は人間の考え方しかできない。単純な事ではないと分かってはいるが、痛みなどを紛らわせるには薬が良いのではないだろうか。そう思い私が足を運んだのは璃月港にある不ト盧という薬舗だ。カウンターの向こうにいる男性の薬剤師の方はおずおずと店内を物色する私を見ると、人の良さそうな笑顔を浮かべ「何かお探しで?」と声を掛けてくれた。
 当たり前だが、仙人にも効く薬を探しています!なんて言ったものなら頭の薬を処方しておきますと言われかねない。言葉を選びつつ薬剤師の方に苦痛を和らげる事のできる強い痛み止めはないかと聞くと、彼はバツが悪そうに頭を掻いた。どうしたのかと尋ねると、どうやらいつも薬草を採りに行く女の子が留守のようで、私の注文した薬を作るには清心という花が三つ必要らしい。申し訳なさそうに項垂れる薬剤師の顔を覗き込み、自分の胸をドンと叩いて見せると、薬剤師は「えっ」と声を漏らした。

「私が採ってきます。私が注文したものですから」

 それならばお願いしますと言われるものかと思っていたが、彼は間髪入れずに「高所にしか咲かない花なんです!」「危険です!」と取り乱した。いやいや舐めてもらっては困る。私の住んでいるところはなかなかの高所にあり山奥で、わりと近くにある璃月港までも片道何時間と掛かるような場所だ。つまり高所や山道には慣れているのだ。その事を薬剤師の彼に伝えるとまだ首を縦には振らずにいたが、ふと高所に咲く花という情報は得られているのだから、彼の許可無く採りに行ってしまえばこちらのものだという事に気が付いた。

「わ、分かりました。やめておきます」

 私がそう言うと、薬剤師の彼はホッとした様子で胸を撫で下ろした。彼に頭を下げて店を出ようと振り返ると、鼻先が何かにドンッとぶつかった。

「失礼した。大丈夫か?」

「あっ!こちらこそ、すみません」

 そこには私よりも背が頭ひとつぶん以上高い、顔立ちの整った男性が立っていた。如何にも凡人が袖を通す事はなさそうな上品な衣服に身を包んでおり、鋭い眼光の中にある瞳は不思議な色彩を放っている。申し訳なさそうに眉を顰める彼にペコリと頭を下げると、形の良い唇の端が少しだけ上がった。なんて綺麗な人なのだろう。もう一度頭を下げて私は薬舗を後にした。そういえばすぐ後ろに立っていたのにさっきの人の気配にまったく気が付かなかった。いや、今はそんな事よりも清心だ。璃月港の周りに聳え立つ山々を見上げて私は覚悟を決めるかのように頷いた。



「…しんどい」

 ただの山登りではないとは思ってはいたが、清心の咲いている場所は高所のまた高所にあり、道などない崖をよじ登るしかそこへと辿り着く手はない。腰掛ける事のできる場所に座り休憩を挟まないと体力が尽きて落っこちてしまいそうだ。故郷であるモンドのセシリアの花が咲く丘を想像していたが、あの薬剤師があそこまで私を心配する理由がここにきて分かってきた。けれど、これも全て毎夜私を助けてくれる魈の為だ。偶然出会った私なんかの悪夢を祓ってくれて、璃月に住む人々の為に暗躍している彼の負担を少しでも減らす事ができたなら…少し弱気になっていた自分の頬を両手で思いっきり叩いて鼓舞する。

「頑張らないと…」

 小さく呟いてまだまだ先の山頂を見上げる。よし!と立ち上がるとガラガラと何かが崩れる音がして視界が反転した。ハッとして足元を見ると片足は宙に浮いており、まずい!と思い咄嗟に手を伸ばすがその手は空を切った。中腹まで登ってきた事によりもしこのまま落ちてしまえば一巻の終わりだ。あまりにも急な事に喉が締まって声も出ない。落ちて行く感覚が時が止まったかのようにゆっくり感じる。走馬灯のように色んな事が脳内を駆け巡った。両親が死んだ日の事。初めて璃月に来た日の事。そして、魈に出会った日の事。
 
―――魈!
 
 来るべき衝撃に備えて目をぎゅっと瞑る。風の唸る音と石がガラガラと崩れる音に混ざって、小さな溜め息が聞こえたような気がした。足は宙に浮いているのに、いつまで経っても体に何の衝撃も走らない。それに、落下している感覚もない。ゆっくりと目を開けると、見覚えのある呆れた顔をした男と目が合った。

「…し、魈!?」

 そこには顔を顰めた魈が私の事を抱き抱えていて、目が合うと魈は私を抱えたまま物凄い速さで崖を登って行く。山頂に辿り着くと魈は私をその場に下ろして、そして私の前に腕を組んで仁王立ちした。

「…何故こんな所にいる」

「…えと、欲しい物があって…」

「我が来なければお前はこの下でただの肉塊になっていたんだぞ!分かっているのか!」

「ご、ごめんなさい…」

 顎が鎖骨の辺りに刺さるのでないかと思う程下を向くと、魈は大きな溜め息を吐いた。
 確かに魈が来てくれなければ確実に死んでいた。そっと横目で崖下を見て最悪の結末を想像し、体がぶるりと震える。魈は縮こまる私を見るとその場に腰を下ろし胡座をかいた。

「欲しい物、とは何だ?」

 恐る恐る顔を上げると魈は不服そうではあるが、もう怒っていないらしく、私の顔をジッと見た。魈の為に薬をと思って花を採りに来たとなんとなく言い辛くて視線を泳がせると、魈の顔がみるみるうちに鬼の形相へと変わっていく。すると、魈の横に白くて可愛らしい花がぴょこりと咲いているのを見つけた。もしかして…

「清心?」

 私の視線の先を追って魈も白い花を見る。魈は私の言葉に「ああ、そうだな」と言うと私と清心を不思議そうに交互に見た。
 そっと清心に手を伸ばしそれを手に取る。よ、良かった。なんだかんだ手に入れる事ができた。思わず摘んだ清心を胸に抱くと、それを見ていた魈がぽつりと呟いた。

「それが欲しかったのか?」

「…う、うん」

「…待っていろ」

 え?と言う間もなく、魈の姿が消える。そして数度瞬きをすると、まるで風のように魈が元いた場所へと戻ってきた。

「ほら」

 魈の手には清心が五本握られていて、思わず「あ!」と大きな声を出してしまった。おずおずとそれを受け取り魈をチラリと見ると、魈は不思議そうに首を傾げた。

「なんだ」

「…貰って良いの?」

「お前の為に採って来たんだ。当たり前だろう」

「あ、ありがとうー!嬉しい!」

 目の前にあった魈の手を握りぶんぶん上下に振ると、魈は驚いた顔をして、そしてその顔が赤く染まっていく。

「な、やめろ!」

「本当に良かった…これで薬が…」

 ハッとして慌てて口を押さえるが、魈は聞いていなかったらしく何故か自分の両手をジッと見つめていた。危ない危ない。
 すると、目の前の魈に影が掛かった。辺りを見渡すと遠くの方にある太陽が半分くらい顔を隠していた。もうこんな時間なのか。ちらりと地上を見てから魈を見ると、私の考えていた事が分かったらしく、呆れたように溜め息を吐いた。

「……お前が一人でここから降りられるだなんて思っているわけがないだろう」

 へへ、と笑って見せると、突然お腹に腕が回される。え?と思ったと同時に体がふわりと浮く。これは一体どういう体勢なんだと顔を上げると、自分が魈の小脇に抱えられている事に気が付いた。まるで小動物でも抱えるかのような雑な抱え方に異議を唱えようと口を開きかけたが、突然体が急降下した事によりそれは異議ではなく悲鳴へと変わってしまった。

「こ、怖いいいい!」

「五月蝿い」

 風を切る音が止んだので、そっと目を開けると体が地面へとべしゃりと落ちる。それは魈が腕を私の体から離したからで、地面へと口付ける私を見て魈はふっと鼻で笑った。

「…もっと優しく下ろしてほしかった…」

「ここまで降ろしてやっただけ有り難く思うんだな」

 地面から顔を上げ魈を睨むと、魈は満足そうに口の端をつり上げた。でも、魈の言ってる事は正しい。登る事さえままならなかった私があの山頂から無事降りられるわけがなかっただろう。懐に仕舞い込んだ清心を服越しに撫でる。あ、そういえば…

「魈は何で私が危険な目に合ってるって分かったの?」

 名前を呼ぼうにも恐怖に喉が締まって声が出なかったあの時の事を思い出す。あの時、魈の名前を強く念じたけれど、それだけで駆け付けてくれたのだろうか?夕日を見ていた魈の顔をジッと見ると、魈は気まずそうに目を泳がせた。

「魈?」

「…見ていたからだ」

「え?」

 魈の顔を覗き込むと、夕日に照らされているからだろうか、赤く染まった顔をした魈はボソボソと小さな声で何かを呟いた。よく聞き取れず聞き返してみたが、返事が返ってくる事はなかった。

「…それよりもこれからどうするんだ。家に帰るのか?」

「…ううん。璃月港に用事があるからそれを済ませてから帰るよ」

 そうか、と言うと魈は私に背を向けた。去って行くのかとその背をジッと見ていると、魈は咳払いをひとつして、チラリと私を見た。

「………気を付けて帰るんだな」

 そう言うと魈は姿を消した。もしかして、心配してくれたのだろうか。崖から落っこちかけるし、魈には怒られて色々大変だったけれど胸の中があたたかいもので満たされる。ふふ、とその場で一人笑うと、私はオレンジ色に染まる空を見ながら璃月港を目指した。



 薬舗に着き、薬剤師の方に清心を渡すととても驚いていたが快く受け取ってくれた。薬を作るのに数分掛かるというので店の外の階段に腰を下ろしていると、見覚えのある人影がこちらへと近付いてきた。

「ああ、良かった。探していたんだ」

「…え?私を?」

 その人とは昼間に薬舗に来た時にぶつかった眉目秀麗の男性で、男性は私を見ると懐から何かを取り出した。

「これを」

 小さな白い紙袋を取り出すと、男性はそれを私へと差し出した。突然の事に意味が分からずとりあえずそれを受け取ると、男性は満足そうに頷いた。

「連理鎮心散という。きっと役に立つだろう」

 そう言うと、男性は目を伏せて微笑み階段を降りて行った。れん、り?聞いた事のない名前の物だがまるで薬のような名前だ。そういえばお礼を言っていないと思い顔を上げたが、男性の姿はもうどこにも無かった。薬舗の方から名前を呼ぶ声が聞こえ、私は白い紙袋を懐へと仕舞い、慌てて店内へと入った。



「え!?効かない、の…」

「我は仙人だぞ」

 翌朝、治療の為我が家にやってきた魈に杏仁豆腐を振る舞いつつ、昨日やっとの思いで手に入れた薬を渡したが、なんともバッサリ仙人である自分に人間の薬は効かないと言われてしまった。その場でがくりと項垂れると、魈は不思議そうに首を捻った。

「急に我に薬をなどと一体どういうことだ?」

 もうここまできたら隠し通せない。そう思いポツポツと薬を渡すまでの経緯を話していく。魈に恩返しがしたかった事、苦痛から解放するには薬が良いのではないのかと思った事、その為に清心を取りに行った事。全て話し終え、何となく気まずさを感じ俯いていると、頭に何かがふわりと触れた。顔を上げると魈の手が私の頭をゆっくり撫でていて、それだけでも驚くというのに、魈は見た事がないくらい穏やかな顔で少しだけ口の端を上げて微笑んでいた。

「……お前はそのような事をしなくても良い。ただ我に守られていれば良い」

 その言葉に鼻の奥がツンとする。じわりと視界が滲んで、目の前の魈が目を見開いた。

「なっ、どこか痛むのか!?」

「ち、違う!目にゴミが入っただけ!」

 慌てて涙を拭うと、魈は気の抜けたような顔をして小さく息を吐いた。そして杏仁豆腐の続きを食べようと皿を持ち上げた。

「……魈、ありがとう」

 魈に聞こえるか聞こえないかくらいの小さな声で呟いてみる。杏仁豆腐を食べる彼の横顔をジッと見ていると、その耳が徐々に赤くなっていく。どうやら聞こえていたみたいだ。魈に分からないようにこっそり微笑んでいると、懐からカサリと音がしてそういえばと、とある事を思い出した。

「そうそう。これ何か分かる?」

 薬舗の前で男性から貰った白い紙袋を取り出し、その中に入っていた薬のような物を見せると魈の顔色が変わった。

「ッ…それをどこで!」

「薬舗の前で背の高い上品な男の人がくれたの。役に立つだろうって」

 私の掌で広げられた薬をジッと見ると、魈は私の顔をチラリと見た。

「……仙人だけでなく、あの方にまでお目に掛かる事ができるなど、お前は運の良い人間だな」

「え?」

 あの方?一体どういう事だろうか。魈は私の掌から薬をひとつ手に取ると、それを杏仁豆腐の中へ放り込んでそれを匙で掬い口の中へと入れた。

「え!飲んじゃったの!?」

「……これは仙人の薬だ」

「え!?」

 あの男性がくれたものは仙人の薬だったのか。けれど、何故あの人は私が魈の為に薬を手に入れたがっている事が分かったのだろう。今思い返してみると不思議な雰囲気の男性だった。思考を巡らせるが、目の前で杏仁豆腐を食べてる璃月の仙人もいるこんな世界だ。不思議な事のひとつやふたつくらいあってもおかしくないだろう。もし今度璃月港を訪れた時にあの男性に会ったら必ずお礼を言おう。そしてその薬はどこで手に入ったのかを聞こう。

「……礼を言う」

 ぽつりと呟かれた言葉にハッと魈の顔を見ると、魈はこちらを見るなとでも言わんばかりに私から赤い顔を背けた。

「礼も何も、私は何もしてないよ」

「…お前が我の為に薬を手に入れようとしなければ、この連理鎮心散が手に入る事はなかっただろう」

 歯切れが悪そうに魈は口をもごもごと動かすと、もう一度「礼を言う」と呟いた。照れ臭そうにそう言う魈に、私もつられて段々照れ臭くなってくる。それを誤魔化すかのように立ち上がり空になった魈の皿を指差した。

「おかわりは?」

 魈はふっと笑うと、黙って皿を私に差し出した。魈といると心があたたかくなる。この感情に名前を付けるのなら何と言うのだろう。魈に聞いたらまたあの穏やかな笑顔で、教えてはくれないだろうか。

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