真名を知るまでは

 風が吹けば倒れてしまうような家といえばこんな感じか。我が家を見てそんな事を考える。少し強い風が吹けば家中がガタガタと揺れ、隙間風が滑り込んでくる。気が付けば虫が入り込んでいるし、鼠の足音もする。こんなところで一人で生活できるんだろうか。
 でも、仕方ない。何故なら両親が揃いも揃って他界したからだ。挙句の果てに実家は意地の悪い親戚に奪われ、今は亡き祖父母が残した璃月のこのボロ屋敷に引っ越す羽目になった。人里離れた山奥にあるこの屋敷だが自然は豊かだし景色は綺麗だし、まあ悪くない。それにモンド人である私が急に女一人で移住してきたとなったらご近所さんも何かと不安がるだろう。なので、近所付き合いもしなくていい此処は先住民に気を遣わなくて良いのでうんと楽だ。
 気を取り直して井戸の水でも汲みに行くかと立ち上がると、家の裏の方で何かが倒れる様な物音がした。今は早朝。鼠達が騒ぎ出すのは夜中だろうし、そもそも鼠が十匹集まってもあんな音は出ないだろう。突然訪れたピンチに背筋が凍る。もしかして、強盗!?言っとくけど私は人様に盗られる程もモラを所有してません!などと心の中で叫びながら、意を決して木の棒を持って裏口へと近付く。

「…えっ」

 裏口をそーっと開けてみると、そこには私と同じくらいの齢の男が倒れていた。緑がかった髪に、右手には刺青のようなものが入っており、風変わりな服装をしている。腰には鬼の面のような物がぶら下がっており、よく見ると目元に薄っすら紅を差している。浮世離れしたこの人は一体何なんだろう、もしかして…

「神様…?」

 思わずそう呟くと、男の指がピクリと動いた。

「…違う。お前はあの方を愚弄しているのか」

 男はゆっくり起き上がると、あどけない顔立ちとは裏腹に私の事をキツく睨み付けた。言ってる意味が分からず口を開けてポカンとしていると、男は胸の辺りを押さえて顔を歪ませる。

「け、怪我してるの!?」

「触るな!…何でもない」

「何でもなくないでしょ!」

 私が大きな声を出すと、男は目を丸くして私を見た。まるで叱られた子供のような反応をする男の前で私は首からぶら下がる神の目をギュッと握った。力を込めて元素力を発動させる。男の周りにシャボン玉のようなものが現れて、弾ける。辺りを見回していた男がハッとして自分の掌を見た。

「傷が…治った」

 ふふん、どうだ。と言うかの様に男の前で仁王立ちすると、男は怯む様子もなく、訝しげに私を見た。

「神の目を保有しているのか」

「何かよく分からないけど一応」

 両親を失って途方に暮れていると、空から雨の様に落ちてきたこの綺麗な物は神の目と言うらしい。この神の目とやらのおかげで傷が治るという事に気付いたのもついこの間で、早速人の役に立つことができてホッとした。胸を撫で下ろしていると、男は私の顔をジッと見て首を傾げた。

「…お前、璃月人ではないな?」

「モンドから移住してきたの。あなたは?」

 私が璃月人の顔立ちではない事などどうでも良くなるくらい、彼は風変わりな格好をしている。私の問いに答える気はないとでも言うかのように、男はぷいっと顔を逸らした。

「お前には関係ないだろう」

 ひ、人に答えさせておいて何て奴!こんな事なら怪我治してあげるんじゃなかった!もう出て行って!と言おうとしたが、男の視線が裏口からすぐのところにある厨房へと注がれている事に気付いた。
 そこに置かれていたのはさっき作ったばかりの杏仁豆腐で、おやつの時間にでも食べようと思っていたものだ。男があまりにも熱心に杏仁豆腐を見つめるものだから、思わずそれが入った器を差し出すと、男は黙ってそれを受け取った。

「… 望舒旅館のものと少し違うんだな」

 杏仁豆腐をジッと見ると、男が何かを呟いた。ぼうじょ…?私が首を捻っているうちに男は杏仁豆腐をパクパクと口に運ぶ。

「悪くない」

「本当!?」

 突然裏口に現れた慇懃無礼な男にでも、自分の作った物を褒められるのは嬉しいものだ。
 あっという間に食べ終わると、男は空の皿をずいっと私に差し出した。

「礼を言う」

 おかわりあるよ、と空になった皿から男に視線を移した筈だったが、どういうわけか男の姿は消えていた。裏口の戸は開いたままとはいえ物音ひとつ立てることなくいなくなるなんて、そんな事有り得るのだろうか。
 まるで白昼夢を見ていたような気分になったが、杏仁豆腐の消えた空の皿がさっきまで居た彼の存在を物語っていた。



 風が轟々と唸っている。気が付けば私は暗い海の上に立っていた。海の上になんて立てるわけない。これは夢だという事に気付くのは簡単だった。数メートル先の水面は渦を巻いており、海面に何度も何度も雷が落ちる。空は真っ黒で、辺りには背の揃っていない山のようなものが聳え立っている。ここは何処だろう。
 辺りを見回しているうちに、渦を巻いていた海面が大きくなっている事に気付いた。なんだかすごく嫌な感じがする。数歩後ろに退がるが、遅かった。
 渦から勢いよく何かが飛び出し、それは私を呑み込んだ。呑み込まれる直前に見えたそれは大きな蛇のようなもので、他に何体もいたような気がする。呑み込まれたというのに、夢だと思うとどこか冷静で、特に狼狽える事もなかったが段々と妙な音が聞こえ出して心臓が徐々に煩くなっていく。
 叫び声、断末魔、誰かが泣く声。瞬きをする度に聞こえる声が切り替わる。けれど、聞こえる声はどれも聞くに堪えない辛いものばかりで、手で耳を塞いでも鳴り止まない。早く覚めろ。これは悪い夢なんだ。早く、早く。
 目をギュッと瞑ると、ふわりと何かが香った。嗅いだ事のあるこの匂いは一体何の匂いだっけ?

 ハッとして目を覚ますと、何かと目があった。

「ぎゃあああああ!おばけ!」

「五月蝿い。静かにしろ」

 起き上がろうとした頭を掴まれ、そのまま枕へと戻される。ん?この声は。暗闇に目が慣れてきて、その輪郭を徐々に捉える。見覚えのある顔にあっ!と大きな声を出しかけたが、頭を掴む手に力が込められたので慌てて口を噤んだ。

「な、なんでここにいるの!」

 そこに居たのは今朝裏口で倒れていた挙句杏仁豆腐を食べてさっさと居なくなったあの男で、さすがにこんな夜更けに枕元に座られていると危機感の薄い私でさえも何事かと狼狽えてしまう。

「悪夢を見たのか?」

 相変わらず質問に答える気のない男だ。男の問いに、そういえば変な夢を見ていた事を思い出す。男の登場に動揺して、気が付かなかったが手足はカタカタと震えているし、心臓も馬鹿みたいに脈打っている。額には汗が滲んでいるし、ただの悪夢にしてはタチが悪かったな、などと考えていると男が「おい」と言って私をジロリと睨んだ。

「質問に答えろ。悪夢を見たのかと聞いている」

「…み、見たけど、それが何?」

 すると男は顔を歪ませて溜め息を吐いた。

「我が、お前に……人間に近付いたからだ」

 人間にって、あなたも人間じゃない。そう言おうとしたが、琥珀色の瞳が妖しく光を帯びている様はまるでこの世のものじゃないみたいで、私は何も言えなくなる。
 そんな私の様子を察したらしく、男はバツが悪そうに口を開いた。

「…我は人間ではない。仙人だ」

「仙人?」

「璃月人でないお前には馴染みがないかもしれないが、璃月には仙人というものが存在する。我はその中の一人だ」

 まるで御伽噺を聞いているみたいな気分だが、風変わりな男の格好と、独特の話し方。そして物音ひとつ立てずに家に出入りしているところを見ると、人間ではなく仙人であるというのは何となく納得できる。

「へぇ。仙人って私初めて会ったよ」

「そう易々と会えると思うな」

 男は腕を組むと、呆れたように溜め息を吐いた。けれど、私が悪夢を見たのと彼が仙人である事は関係があるのだろうか。目を伏せる男の顔をジッと見ていると、何かを決意したかのように男が顔を上げた。
 


 男から聞かされた話は壮大なもので、自分は璃月を守る護法夜叉というもので、魔神戦争で敗れた魔神達の怨念と毎夜戦っている。というものだった。仙人というのは山の一番高いところでのんびりしている髭の生えたお爺さんのような印象だったけど、こんな風に人々を守る仙人もいるんだなぁ。と感心していると、男が懐から何かを取り出して私に差し出した。

「これは?」

 男が差し出した物は蝶の形をした葉っぱのような物で、それを受け取ると心無しか悪夢によりザワザワしていた心が落ち着いていくような気がした。

「仙法だ」

「なにそれ?」

「アオギリの葉で作った魔除けだ」

「へぇ、かわいいね!」

 このぶっきらぼうな仙人が蝶の形をしたかわいい魔除けを作るなんて、まるで彼の心の一部を覗けたみたいで嬉しくなる。男に笑顔を向けると、眉間に皺を寄せてそっぽを向いてしまった。私、何か変な事言ったかな。

「でも、何で魔除け?」

「…我は業障を背負っている。その業障に只の人間であるお前は影響されて悪夢を見た。…だから、それを持っていろ」

 なるほど、彼なりの申し訳ないという気持ちの表れなのか。貰った魔除けを枕元にそっと置くと、男は満足そうに頷いた。

「また何かあったら呼べ」

「え、でも」

 私の言葉を聞く前に、男は腰にぶら下げていた仮面を被り、姿を消した。

「呼ぼうにも、名前聞いてないんだけど…」



 魔除けを貰って三日が経った。あれから悪夢は見ておらず、それこそこの前の事はまるで夢だったんじゃないかと思うくらいだ。枕元の明かりを消して、布団に潜る。あの仙人は今夜も璃月の為に戦っているんだろうか。そんな事を考えながら眠りについた。

 眠りについた筈が、私は海面の上に立っていた。見覚えのある光景に背筋がゾクリとする。なんで?魔除けは毎晩欠かさず枕元に置いているのに。雷の落ちる音に体が跳ねる。嫌だ、またこんな夢を見るなんて。覚めろ、覚めろと念じていると、近くの海面から何かが大きな音を立てて飛び出した。
 それはこの前私を呑み込んだ大きな蛇のような形をした生き物で、あまりの迫力に体が硬直する。
 逃げなきゃ。またあれに呑み込まれたら…
 叫び声、断末魔、誰かが泣く声。あんなものはもう聞きたくない。目から何かが流れ落ちる。それが頬を伝って落ちたと同時に、蛇のような生き物が私めがけて襲いかかる。

「っ、いやっ!」

 目をギュッと瞑ると、ふわり、またあの匂いだ。

「靖妖儺舞」

 聞いた事のある声に目を開けると、仮面を被った男が槍を持ち、蛇のような生き物と戦っていた。いや、戦っている、というより一方的に攻撃している。それくらい男の攻撃は凄まじく、あんなにも恐ろしかった蛇のような生き物は慌てて海の中へと帰って行った。
 渦を巻いていた海面が元に戻るのを確認すると、男は仮面を外して私の方を見た。

「だから呼べと言っただろう」

「よ、呼ぶも何も名前聞いてない!」

 ああ、と言うと男が口を動かす。男の背後には朝日が顔を出していて、逆光で段々顔が見えなくなる。何故だか何も聞こえなくなって、視界がぼやける。そうか、これは夢だから目覚めるんだ。目覚めるタイミングおかしいよ。まだ名前、聞いてないのに。
 視界が暗くなり、私はまた眠りについた。



「おい」

「ぎゃあああああ!」

 勢いよく起き上がるとまたしても頭を掴まれ枕に戻される。その時、チラリと枕元にあった魔除けが目に入ったが、その葉はまるで焼け焦げたかのように真っ黒になっていて背筋がヒヤリとした。

「何故こんなになるまで放っておいた」

 当然のように枕元に座る男は、真っ黒になった魔除けを指差して私を睨み付けた。

「ち、違うよ!昨日まではこんな色してなかったもん!」

「…もって三日というところか」

 男は真っ黒になった魔除けを握りつぶすと、その残骸はキラキラと光になって消えていった。
 それより、さっきまで見ていた悪夢に彼が登場したのは何か意味があるんだろうか。腰に下げている仮面の細部まで全く一緒だった気がする。

「あの、さっきまた悪夢を見たんだけど…」

「知っている。あの魔神の怨念は祓っておいたから数日は夢に出てくる事はないだろう」

「え!?仙人って夢の中にも入れるの?」

「…こんな事は滅多にしない。けれど、っ!」

 突然、男が体を押さえて蹲る。慌てて布団から飛び出すと、よく見ると何箇所も新しい傷ができており数箇所からは出血もしている。混乱する頭をどうにか落ち着かせて、枕元に置いていた神の目を掴んで、元素の力を発動する。
 シャボン玉が男を包んでそれが弾ける。すると、蹲っていた男はゆっくりと身を起こした。

「大丈夫!?」

「……ああ、随分、っ楽になった」

 それでもまだ苦しそうな男の背をさすると、男は目を丸くして私を見た。

「な、何だそれは」

「え?具合悪い時って人にこうやってしない?」

 人、ってそういえば彼は仙人だった。やめろと言って手を振り払われるかもと思ったが、何故だか男は大人しく背中を私にさすられたままでいる。これは別にやめなくても良いって事なのかな?
 変に言葉を発する事ができず、沈黙が続く。すると男はぽつりぽつりと小さな声で話し出した。

「……あの悪夢を繰り返し見ると、人の気は狂う」

 さっき見た悪夢を思い出して心臓が大きく跳ねる。そうだろう。あんなもの毎晩見たら気が狂ってしまう。私の震えが伝わったのだろうか、男は振り向くと眉間に皺を寄せて私の目を見た。

「我がお前に近付いたからだ。すまない。十日程経てばあの夢は見なくなるだろう。その間、我は夢にのみ介入しお前に悪夢を見せる魔神を祓う。もうお前の前に姿は見せない」

 それを今日は言いにきた。と言って男はアオギリの葉で作った魔除けを三つ、枕元に置いた。
 悪夢を見るのはもううんざりだ。でも、私に悪夢を見せる魔神を祓うに限らず、彼は毎晩あのようは戦いに身を置いているのだろうか。それも、たった一人で。私はあの夢の中一人で心細かった。何もできなかった。ただ魔神の怨念に呑まれ、苦しむ事しかできなかった。そんな思いを私達人間がしないよう、彼はたった一人で戦ってくれているのだろうか。そう思うと、目頭が熱くなり涙が頬を濡らした。それを見ると男はギョッとし、目を何度も瞬かせ私の顔を凝視した。

「なっ、どうした?我がお前を守ると言っているんだ。安心しろ」

「そうじゃなくって…っあ、あなたはそうやってさっきみたいに一人で苦しむの?」

 驚いた顔をした男が私の言葉を聞くとふっ、と笑った。

「…なんだ、そんな事か。気にするな。それに、お前の夢を祓うくらいついでに過ぎない」

「つ、ついでならこの魔除けの効力が切れた時にまた来てよ!そしたら私、元素であなたの傷治すから!」

 こうやって誰にも知られず戦い、苦しんでいるんだと思うと胸が痛くなる。なら少しでも彼の傷を癒したい。彼と接する事で悪夢を見ようが、彼が悪夢を祓ってくれるのなら私はへっちゃらだ。只の人間一人を気にかけ、見捨てる事をせずこうやって時間を割いてくれるぶっきらぼうで優しい仙人を少しでも護りたい。涙を溜めた顔を隠す事もせず、男の目を見つめると、男は観念したかのようにふぅ、と息を吐いた。

「…お前のようなお節介な人間は初めてだ」

 男は考えるような仕草をすると、厨房の方をジッと見た。

「……杏仁豆腐」

「…え?」

 ぽつりと呟かれた言葉を聞き間違いだと思いもう一度聞き返すと、少し顔を赤く染めた男が咳払いをして腕を組んだ。

「仕方ない。そこまで言うのなら三日に一度、ここに来てやろう。しかし、その時には杏仁豆腐を用意しておけ」

 杏仁豆腐?初めて会った時の事がゆっくりと蘇る。そういえば夢中で杏仁豆腐を食べていた。仙人って好きな食べ物とかあるんだ。そんな事を考えていたら涙は引っ込み、じわじわと笑えてきた。

「ふ、ふふ。杏仁豆腐好きなんだ」

「わ、笑うな!」

「うん、来る時には作っておくね」

 顔を真っ赤に染めて男がそっぽを向く。少年のような見た目をした、だけどとても強くて優しい璃月を守る仙人。この人がいれば、私の璃月での生活も少し楽しくなりそうだ。

「では、また三日後に来る」

「分かった…あっ!待って!」

 去ろうとした男のズボンの裾を掴む。バランスを崩した男が「なんだ」と言って首を捻った。

「あなたの名前!聞いてない!」

 ああ、と言い男が口を動かす。まるで夢で見たあの時の光景と同じだ。けれど、今度は彼の顔も、声も、ちゃんと聞こえる。

「魈だ。何かあったら我の名を呼べ」

 すぐ駆けつける。魈はそう言うと、口の端を少し上げて微笑んだ。

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