知らない天井と目が合った…かと思えば涙目の幼馴染がフェードインして「ナマエ!大丈夫か!」と寝起きの私には少々刺激的な大きさの声を張り上げた。
「具体は悪くないかい?いや、まだ少し顔色がよくないな…直ぐ水を取ってくるから…って、アルハイゼン!何をするんだ!」
「けたたましく鳴く鳥を何羽連れて来ても君のその騒がしさには勝てないだろうな」
「どういう意味だ!」
「……褒めているんだ」
「それのどこが褒め言葉なんだ!」
オロオロしていたカーヴェがアルハイゼンに服の裾を引っ張られて怒っている。寝起きでぼんやりしていたが、脳が覚醒するに連れて、色んな事を徐々に思い出してきた。確か、昨日薬を盛られて危険な目に遭い、アルハイゼンの前で泣きじゃくり…と、そこで記憶が途切れている。私の寝転ぶベッドの脇で口論が勃発し掛けているが、構わず起き上がろうとすると、大きな手が伸びてきて、起き上がろうとする私の肩をトンと押した。押された事により私はもう一度ベッドへと沈むと、カーヴェが「君ってやつは!」とアルハイゼンをキッと睨み付けた。
「君には女性の扱いというものがなっていない!」
「扱いも何もまだ万全では無いのに起き上がろうとする彼女にもう一度横になる事を促しただけだ」
突然肩を押されたからどういう事なのかと思っていたけど、そういう事だったのか。というか、目を覚ましてから私、一度も話せていないのだけれど…そんな私の視線に気が付いたのか、アルハイゼンと目が合う。アルハイゼンは未だぶつぶつと何かを言い続けるカーヴェを無視して、私の顔をジッと見た。
「カーヴェが言ったように、確かに顔色が悪いな」
「ちょっと目眩がするだけ。大丈夫だよ」
「……そうか」
アルハイゼンは頷くと、立ち上がり、扉の方へと歩いて行く。「どこへ行くんだ」とカーヴェが声を掛けると、アルハイゼンは「寝る」と一言だけ言い、カーヴェの事を鋭い目で見た。くれぐれも起こすなよ、とも取れるその視線にカーヴェがむむむと口をへの字に結ぶと、アルハイゼンは欠伸をしながら部屋を出て行った。
「……マイペースなやつだ」
「…アルハイゼン、寝てないの?」
「え?ああ…」
口籠るカーヴェに首を傾げると、カーヴェはアルハイゼンが去って行った扉を気にしながら私に顔を近付けた。
「アルハイゼンの奴、君を連れて帰って来てからマハマトラに対応したり、君の看病をしたりしていてね。まったく、僕が変わるから寝ろと言っても聞かなくて…本当にあいつは強情だよ」
アルハイゼンが私の看病を?私が目を見開くと、カーヴェは慌てた様子で、「君が気に病む必要はないんだよ」と言った。
そういえば、この部屋は誰の部屋なのだろう。アルハイゼンの家である事は確かなのだが、私はこの家のリビングにしか足を踏み入れた事がない。壁一面に本が並べられている質素な部屋。雰囲気からしてカーヴェの部屋ではなさそうだ。なら、この部屋は…
「ここって、もしかしてアルハイゼンの部屋?」
「うん、そうさ。相変わらず本だらけの、美的センスの欠片もない部屋だ」
カーヴェは肩を竦めると大きな溜め息を吐いた。じゃあ私が寝ているのはアルハイゼンのベッド!?慌ててベッドから抜け出そうとすると、それに気付いたカーヴェが私の肩を両手で押した。さっきアルハイゼンに女性の扱いうんぬんと言っていたのは何だったのか…
「ダメだ!もう少し休んでいてくれ。それとも…アルハイゼンのベッドというのを気にしているのかい?なら僕の部屋に移動する?」
「そ、そうじゃなくて!人のベッドを借りてるの申し訳ないなって…」
「それなら気にしなくて良い。アルハイゼンは平気で人を床に転がしておくような奴だ。そんなアルハイゼンが君を自分のベッドに寝かせたって事は、君の事をそこそこ気に入ってるって事だと思う。だから遠慮せず休んでいて良いんだよ」
カーヴェは私を安心させるかのように笑顔を浮かべる。カーヴェの言葉におずおずとベッドへ沈み直すと、カーヴェが私の頭をふわりと撫でた。
「ナマエが無事で良かった。怖かっただろう?もう大丈夫だよ」
カーヴェの太陽みたいな綺麗な笑顔と、あたたかい手のひらの温度に肩の力が抜けていくようだ。まるで泣いてる子供をあやすかのようにそっと私の頭を撫でるカーヴェの手が心地よくてもう一度眠ってしまいそう…と、目を閉じかけた直後、カーヴェが「ああ!」と突然大きな声を出すものだから驚いて閉じかけていた目を見開いた。
「もうこんな時間なのか!ごめん、ナマエ。僕は今日教令院に用事があるんだ。できるだけ早く帰るようにするけど、君は無茶しちゃダメだからね」
カーヴェはすくりと立ち上がると、「行くぞメラック!」と言い、部屋の片隅に置かれていた鞄に声を掛ける。すると鞄は宙に浮かび、ピッ!とまるで返事をするかのように音を立てカーヴェの周りをふよふよと浮いている。
「じゃあ、行ってくる」
「…あ、カーヴェ!」
颯爽と部屋から出ようとするカーヴェに慌てて声を掛けると、カーヴェは目を丸くして私を見た。
「色々ごめんね。ありがとう」
私がそう言うと、カーヴェはポカンとしていたが、くしゃりと笑って照れ臭そうに頭を掻いた。
「…どういたしまして…と言っても僕は何もしていないんだけどね。でもナマエはもっと、幼馴染である僕を頼ってくれていいんだよ?」
「……うん」
カーヴェの言葉にじーんとしていると、メラックが一際大きな音で鳴いてカーヴェの背中に勢い良くぶつかった。どうやら出発時刻を過ぎてしまったらしい。「痛い!分かったよ!分かったから!」と言いながらカーヴェはメラックに背中を押されながら部屋から出て行った。
再会してからというもの、色んな事が大きく変わってしまっていたカーヴェ。お酒が大好きで、なのにお酒に弱くて、同居人との口喧嘩には負けがちで…けれど、昔と変わらない彼の綺麗な笑顔と優しい言葉選びはとても安心する。
ベッドにごろりと寝転びながらカーヴェが幼馴染で良かったなとしみじみ考えていると、そういえば私がアルハイゼンのベッドを占領してしまっているんだから、アルハイゼンはどこで寝ているんだろうという事に気が付く。カーヴェには大人しく寝ていろと言われたけれど、少し目眩がするのと眠い程度だから大丈夫だろうとそっとベッドから抜け出す。開きっぱなしになっていたドアからリビングへとそろりそろりと足を踏み入れると、リビングのソファの上で仰向けになり腕を組み、顔の上に開いた本を被って眠るアルハイゼンの姿があった。リビングには日の光を遮るものがないのだろう。その為顔の上に本を掛けて眠っているのだろうか。アルハイゼンらしい寝姿だなとまじまじとその姿を見ていると、アルハイゼンの胸が膨らんだかと思うと、薄く開いた口から息が吐き出された。
「……目眩がすると言っていただろう。もう一眠りしたらどうだ」
「お、起きてたの!?」
「…カーヴェが煩くて眠れなかったんだ」
騒々しく家を飛び出して行ったカーヴェを思い出し、そりゃそうかと納得していると、アルハイゼンは顔から本を取って、ゆっくり起き上がった。いつもきっちり整っている髪が少しだけぐしゃぐしゃになっているし、鋭い目は心なしか眠たげにぼんやりとしている。いつもと違うアルハイゼンの姿になんだか見てはいけないものを見てしまったような気分になる。
「あの、ベッド使わせてもらっちゃってごめんね…私が使った直後だから嫌かもしれないんだけど、良かったら眠ってきて?」
「……君の事を良く思っていないのであれば俺は君を床に転がしておいただろう。それに君は病人だ。盛られた薬もまだ抜けていない。俺はどこでも眠れるから君は遠慮なくあのベッドを使ってくれて良い」
カーヴェが言っていた事と全く同じ事を言うアルハイゼンにやっぱりこの二人って仲が良いのだなと思う。
しかし、そうは言ってもこんなにも眠そうなアルハイゼンを前に「ならそうするね」とスヤスヤと眠りにつくわけにはいかない。というか、私はさっさと家に帰れば良いのでは?目を覚ました時に気が付くべきだった。
「……君は被害者として要観察対象になっている。俺は教令院に属しているし、俺の管理下に置いておくならマハマトラの元に君を引き渡さなくて良いと言われている。つまり、君は数日俺の家で寝泊まりしてもらう必要がある」
「…………ええっ!?」
考えていた事を見事に当てられたのも驚きだが、それよりも私が要観察対象でアルハイゼンの家に数日寝泊まりしなくてはいけないという事に関しては驚きどころの騒ぎではない。
「そ、そんな重大な事件になってるの?」
「君に薬を盛った男はマハマトラが前から捕えようとしていた男だからな……まあまあといったところだろう」
「……まあまあなんだ…」
なんだかすごい事に巻き込まれてしまった。アルハイゼンの向かいのソファに力無く腰を下ろすと、アルハイゼンもまたソファの背もたれへと凭れ掛かり、手元にある本をパラリと開いた。
「……寝ないの?私は平気だから良かったら眠ってきて?」
「……」
アルハイゼンは本から視線を一瞬だけ私に移すと、はぁ、とわざとらしく大きな溜め息を吐いた。な、なに!?と身構えると、アルハイゼンは本に視線を戻したかと思えば、淡々と唇を動かしていく。
「………君のその他者を優先し自己を蔑ろにする傾向は以前からなのか?さっきも言ったが君は薬を盛られて万全ではない。俺の事は気にせず休めと家主である俺が言っているんだ。大人しく言う事を聞いてくれないか」
「う……ごめんなさい…」
迷惑を掛けるに掛けたうえでの説教はなかなかの威力だ。アルハイゼンの言葉がグサグサと心臓に刺さっていく。思わずその場で項垂れるが、アルハイゼンは私の様子などお構い無しに説教を続けていく。
「昨夜の出来事もそうだが、君は他人を直ぐに信用しすぎなんじゃないのか」
「……おっしゃる通り…迂闊だったかも…」
「…君はもう少し自覚を持った方が良い」
自覚?顔を上げアルハイゼンを見ると、気が付けばアルハイゼンは本を閉じジッと私の事を見ていた。眠さも相まってか、いつもに増して鋭い目をしたアルハイゼンとばっちり目が合う。
「……自覚って、何の?」
「女性としての、だ」
そう言うと、アルハイゼンは立ち上がり私の横へと腰掛ける。突然隣に座るアルハイゼンに意味が分からずその顔を凝視していると、アルハイゼンの手が伸びてきて私の肩を掴み、そして、押した。
「……え」
いとも簡単に後ろへと倒れた私をアルハイゼンが見下ろしている。瞬きをふたつほどすると、アルハイゼンがまるで私に覆い被さるかのように迫ってくる。そこでやっと自分が置かれている状況に気が付いた私は慌ててアルハイゼンの胸を軽く叩いたが、無論、びくともしない。
「アルハイゼン!?」
「……俺の言いたい事が分かったか」
私に覆い被さっていたアルハイゼンは、思ったよりもあっさり身を引くと、押し倒されてポカンとしたままの私の手を引いて起き上がらせた。
「知らない男から貰った酒を何の疑いもなく飲む、男と二人きりの状況で衣服の乱れを気にせず話し続ける」
アルハイゼンはソファに丸められていたブランケットを私へと差し出す。ハッとして自分の服を確認すると、気が付かなかったが、若干衣服が乱れており、アルハイゼンの言った言葉の一つは確かに昨夜の私の迂闊さを指摘しているものだが、もう一つは今のこの状況を指摘しているのだと気付いて居た堪れない気持ちになる。渡されたブランケットを遠慮がちに羽織ると、アルハイゼンは気が済んだかのように向かいのソファへと移動した。
「……ごめん」
「謝罪を要求していたわけじゃない。ただ、君は信頼できない男の前ではもう少し気を張る事だ」
「…確かに、でも…」
でも?と聞き返すかのようにアルハイゼンが首を捻る。何を言っても辛辣な言葉が返ってきそうだが、私は恐る恐る口を開いた。
「昨夜、何の疑いもなく酒を飲んだのは完全に私の落ち度だよ。…でも、アルハイゼンの事は信頼してる。私の事助けに来てくれたし、病み上がりの女に手を出すような人じゃない事くらい分かるし…」
アルハイゼンは昨夜わざわざ私の事を助けに来てくれた。こんな二、三度会った程度の同居人の幼馴染であるだけの私を。それに、初めて会った時も夜である事を考慮して家まで送ってくれた。そんなアルハイゼンの事を「信頼できない男」などと思う筈がない。
「……アルハイゼンは優しいから、つい甘えちゃうのかも」
へへ、と私が笑顔を見せると、アルハイゼンは目を見開いたまま固まっていた。えっ、また怒られる?と硬直していると、突然アルハイゼンが立ち上がり、上着を羽織りスタスタと玄関まで歩いて行く。
「…出掛けてくる。言っておくが、君は当分外出は禁止だ」
「わ、分かったけど、どこに行くの?」
「食事を買ってくる」
「そ、そう……いってらっしゃい…」
「ああ、行ってきます」
アルハイゼンは一度だけ振り返り、私の事をジッと見ると、玄関の扉を開けて行ってしまった。
アルハイゼンの家に一人取り残された私はブランケットにくるまったまま、日当たりの良いリビングで首を捻った。
「……どういう感情?」
アルハイゼンの事を完全に理解するには、まだまだ時間が掛かりそうだ。