寄せては返す波の音と、前を歩く足音。「インスピレーションがてんで湧かない!」と筆を投げたホムラは私の手を引きアトリエのすぐ近くの海へと飛び出した。靴のまま浅瀬を歩こうとするホムラを何とか止めて、波打ち際をあてもなく歩いて行く。ズボンのポケットに手を入れてキョロキョロと周りを見ながら歩くホムラの顔は満足そうだ。彼の言うインスピレーションとやらが湧き出すことを祈りながら後ろを歩いていると、波が引いていった濡れた砂浜に何かが光っているのを見つけた。何だろうと反射的に近付くと、そんな私の動きに気付いたホムラが首を傾げた。
「何か見つけた?」
澄み切った彼の声が、波の音とカモメの鳴き声の隙間を縫って私の耳へと届く。返事をするよりも先に落ちているそれを拾うと、いつの間にやらそこまで来ていた波がザブンと音を立てて私の足元を飲み込んだ。
「冷たい!」
「…何やってるの」
慌てて波打ち際から離れると、呆れたように肩を竦めたホムラがびしょ濡れになった私の足元を見て笑った。
「自分の靴をこんな小さな波からも守れないのかい?ボディーガードさん」
「…あんまり意地悪ばかり言ってると、いざという時に守ってもらえないよ?雇用主様?」
「おや、それは困るなぁ」
ホムラは当たり前のように私の手を取ると、アトリエまでの道を引き返す。靴がびしょ濡れになってしまった私を引き連れてまでインスピレーション探しの散歩をするつもりはないらしい。
「あっ」
「なに?」
そういえばさっき拾った物を握りしめたままでそれが何なのかを確認するのを忘れていた。ホムラと繋がっていない方の手のひらをそっと開くと、私の声に反応したホムラも振り向いて、それを凝視している。
「シーグラスだね」
「シーグラス?」
ホムラがシーグラスと呼んだこの物体は、丸とも四角とも言えない妙な形をしていて、石とガラスの間のような質感をしている。何それ?という意味を込めてホムラの顔を見上げると、知らないの?とでも言うかのようにホムラが少しだけ目を大きく開いた。
「どこかから流されてきたガラスが波に揉まれて小片になり、角が取れてこんな形になるんだ。この辺りによく落ちているのを見かけるよ」
「そうなの?こんなに綺麗で可愛いんだから拾って集めようよ!」
「え?ちょっと……」
「陽が沈むまでにどっちが多く集められるか競争ね」
よーい、ドン!と言うと私は濡れた靴を適当に脱ぎ捨てて、波打ち際へと走った。ホムラはというと最初はポカンとしていたけれど、まるで私を真似るかのように自分も靴と靴下を脱ぐと波打ち際へと駆けてきた。
◇
「陽が沈むまでって言ったのに…」
「君こそ、もう少しもう少しと言ってなかなか終わろうとしなかったじゃないか」
結局、あの後陽が沈む直前にお互いの拾ったシーグラスを見せ合い数を確認したところ、なんと同数だという事が発覚し、このままでは勝負がつかないと粘りに粘っていたらとっくに陽は沈んで、空には月が顔を出していた。
「で?勝者は何を貰えるのかな?」
「…」
たった一個の差で、私はホムラに敗れてしまった。最後に見つけた赤色のシーグラスを月の光に当てては満足そうにしているホムラを横目で睨みつけると、そんな私の視線が愉快だったのかホムラは少し屈んで目線を私へと合わせた。
「その様子だと何も考えていないようだね?なら僕が考えてあげよう。そうだなぁ…最近肩が凝っているからアトリエに帰ったらマッサージでもしてもらおう」
「……私の負けは事実だもん。仕方ない…」
私がガックリ肩を落とすと、ホムラが嬉しそうに笑った。この様子だとホムラのマッサージを終えて家に着く頃には日付が変わってそうだ。とはいえ言い出しっぺは私なのだから文句を言うわけにもいかない。初めてのシーグラスに浮かれていた数時間前の自分の行動を後悔していると、何かが足元できらりと光った。
「ん?…………あ!」
勢い良くしゃがんでそれを拾うと、それは水色と緑色の間の色をしたシーグラスで、他のシーグラスとは違い、角がほとんどなく、ビー玉のようにまん丸い。今まで集めた物とは違う綺麗な丸い形をしたそれに目を輝かせていると、唇を尖らせたホムラが私の持っているシーグラスをじっとりと見た。
「言っておくけど、それは勝負後に見つけたものだからノーカウントだよ」
「えっ!なんで!これもカウントさせてよ!」
「ダメだよ。僕の勝ちは揺るぎないんだから」
「ケチ!」
抗議する私を置いてスタスタとアトリエまでの道を歩いていたホムラが、くるりと振り返り、私の顔へと手を伸ばす。その手は私の頬をぶにっと掴むと、まあまあの力で横にぐいぐいと引っ張った。
「いひゃいいひゃい!」
「ケチ、だなんて僕に酷い事を言ったのを取り消すかい?そうじゃないと君のほっぺは横に伸び続ける事になるだろうね」
「と!とりふぇす!」
パッとホムラが私の頬から手を離す。少しだけヒリヒリする頬を押さえながらホムラをキッと睨み付けると、ホムラはいたずらっ子のようにくしゃりと笑い、舌をべっと出した。
「さぁ、帰ろう。仕方ないからこのシーグラス達は僕のアトリエの一等地に飾ってあげるよ」
少し砂の付いたホムラの手が差し出される。チラリとホムラの顔を見ると、ホムラは顔を綻ばせながら私が自分の手を取るのを待っている。そっとその手を取ると、ホムラの指が私の指の間を縫うように柔らかく絡みつく。
「インスピレーションは湧いた?」
びゅうっと海風が吹いて、びしょ濡れのままの足が一瞬ゾクリと冷えた。思わずホムラと繋いだ手に力が入る。ホムラは風に揺れる前髪を鬱陶しそうに手で払いながら振り向くと、空いている方の手で三本の指を立てた。
「三パーセント」
「……そ、それだけ?」
「三パーセントでも大きな収穫さ。どんなに散歩をしたってインスピレーションが湧かない時は何日も何週間も湧かないものなんだから」
そういうものなのか。芸術家の感性というものは難しい。そんな事を話しているうちに、気が付けばアトリエの前に着いており、ホムラは玄関の扉を開けると、私の足元をチラリと見た。
「足を洗うついでにシャワーを浴びて行ったら?」
「……そうだね。借りようかな」
海風で髪の毛はベトベトだし、何時間も海辺を駆け回っていたから汗もかいている。絡まった髪を指でとかしていると、ホムラが私にバスタオルを差し出した。「ありがとう」とそれを受け取ると、ホムラがそっと私の肩を抱いて、耳元に顔を近づけた。
「僕も一緒に入ろうかな?」
「…………バカ」
ホムラの肩をそっと押し返すと、ホムラは私の顔を見て得意気に笑っていたのに、突然ハッと何かを閃いたかのように部屋の奥へと走って行った。
「どうしたのー?」
塩水で濡れた足のままアトリエに入るのは申し訳ない。なので玄関から少しだけ大きな声を出してホムラに声をかけると、ホムラはさっきよりも機嫌が良さそうな声で「思いついたんだ!」と返事をしてきた。
「思いついた…?」
「ターコイズブルーの丸いシーグラスと、真っ赤になった君!インスピレーションが湧いてきた!」
スケッチブックを片手に意気揚々とした様子で戻ってきたホムラを見て、私は赤い顔を隠しながら「良かったね……」と、手の中にある丸いシーグラスをただただ握り締めた。