「ごきげんよう」
何となく聞き覚えのある、落ち着いた声色。背後から掛けられたその声に振り向くと、そこには私が想像していたよりもうんと意外な人物が立っていた。
「ヌヴィレットさん!?」
椅子がひっくり返らんばかりの勢いで慌てて立ち上がると、ヌヴィレットさんは表情を変える事なく「いい、ゆっくりしていてくれ」とグラグラと揺れる椅子を指差している。
私はパレ・メルモニアの共律官で、ヌヴィレットさんは私達の上司にあたる人だ。いや、上司どころではない。この国の最高審判官であり、フリーナ様同様、ヌヴィレットさんを知らない人はこの国には存在しないだろう。
あまり往来には姿を見せない彼が、一体どうしてこのカフェに?辺りを見渡すヌヴィレットさんの事を目を丸くして見ていると、私の考えている事が分かったのか、ヌヴィレットさんがゆっくり口を開いた。
「……メンタが、ここのコーヒーが美味しいから一度は飲んだ方が良いと、会うたびに言っていてな。ならばと思い足を運んでみたのだ」
「……メンタちゃんが…」
メンタちゃんはこの辺りを周回しているメリュジーヌだ。メリュジーヌ達とヌヴィレットさんの関係は深く、私達ならば恐れ多くてヌヴィレットさんに気軽に話しかける事など出来ないが、メリュジーヌ達はヌヴィレットさんの事を慕い、まるで大好きなお父さんに対する娘のように接している。
確かにここのコーヒーは美味しい。ヌヴィレットさんに飲んでもらいたい気持ちも分かる。ヌヴィレットさんもメンタちゃんが美味しいと言っていたからといって足を運んでくれるなんて、やはりヌヴィレットさんは噂通りの人格者だ。
なるほどなるほどとヌヴィレットさんの話を聞きながら頷いていると、ヌヴィレットさんがテーブルの上にあるケーキとコーヒーをすっと指差した。
「邪魔をして悪かった。私の事は気にせず、ティータイムを続けてくれ」
「あっ、いえ…あの、はい……」
しどろもどろになりながらも椅子へと腰掛けると、ヌヴィレットさんは小さく頷いて、コーヒーを注文しに行ってしまった。
同じパレ・メルモニアで働いているとはいえ、ヌヴィレットさんと言葉を交わしたのは数回程だ。しかも、そのほとんどが挨拶や当たり障りのない会話ばかり。だからヌヴィレットさんから声を掛けてもらえてとても驚いた。声を掛けてくれたという事は私がパレ・メルモニアで働く共律官であるという事を覚えてくれているという事だろう。憧れの上司であるヌヴィレットさんに覚えてもらえているなんてこんなにも光栄な事はない。浮き足立ちながらケーキを口に運ぶ。そういえば、ヌヴィレットさんはコーヒーはここで飲んでいかれるのだろうか?それとも持ち帰るのだろうか?注文に行った彼の姿を探すと、注文を終えたであろうヌヴィレットさんがなぜか店先で棒立ちになっている。どうしたのだろうかと辺りを見渡すと、霧雨とはいえ降り続けている雨がテラス席をびっしょり濡らしている。これでは座る事ができない。座ったとしてもお尻が濡れてしまうだろう。ハッとして自分の座る向かいの席を見ると、パラソルが他の席より少し大きい事もあり、運良くもそこは雨に濡れていなかった。
「ヌ、ヌヴィレットさん!」
どこにも座る事が出来ず途方に暮れているであろうヌヴィレットさんの名を呼ぶと、目を瞬かせたヌヴィレットさんがこちらへと歩み寄ってくる。
「あの、この席なら濡れていないので良ければどうぞ!」
「…………ありがとう」
なぜだか少し目を見開いたヌヴィレットさんは、向かいの席と、私を交互に見ると小さく微笑んだ。わ、笑った!見たことのないヌヴィレットさんの笑顔に胸が高鳴る。こんなところでヌヴィレットさんに会うだけじゃなく、彼の笑顔まで見る事ができるなんて、今日は何て良い日なんだろう。そんな事を考えていると、店主が熱々のコーヒーを持ってやって来て、それをヌヴィレットさんの前に置いた。
「コーヒーとヌヴィレットさんって、何だかよく合いますね」
甘いケーキとフリーナ様の組み合わせがぴったりなように、誰もが憧れる大人の男性であるヌヴィレットさんと熱々のコーヒーの組み合わせもぴったりだ。ふふふ、と声を漏らし微笑んでいると、そこで私はとんでもない事を口走ってしまった事に気が付いた。な、なにをヌヴィレットさんに気軽に話しかけているんだ!しかもすごくどうでもいい事を!慌てて自分の口元を押さえて俯く。ヌヴィレットさん、何も言わないけど、なんだこの失礼な女は…とか思っていないだろうか。
「確かに、ケーキよりかはコーヒーの方が似合いそうだ」
「……え?」
「ケーキといえばフリーナ殿、というイメージがあるからな」
そう言うと、ヌヴィレットさんはコーヒーを一口飲み、「美味しい」と呟いた。
良かった。怒ってはいないみたい。むしろ、 話を合わせてくれた。ほっと胸を撫で下ろしていると、ヌヴィレットさんはティーカップに口を付けながら、ちらりと空いているテラス席を見た。
「……どうされました?」
「今の時間帯は空いているのだろうか」
「いえ、いつもならそこそこ混んでいるんですけど…たぶん、雨が降っているからみんな屋内に入ってしまったんじゃないでしょうか」
テラス席に座っているのは私達だけで、歩道を歩く人も少ない。小雨とはいえやはり雨が降っていると出歩く気分にはなりにくいのだろう。「そうか」とヌヴィレットさんが言ったかと思えば、霧雨程度だった雨がパラソルに音を立てて叩き付けるくらいのまあまあの勢いへと変化した。
「わ、降ってきましたね」
「……そうだな」
空が鈍色になって、雨がテーブルや私の肩を叩く。フォンテーヌは元々天気が不安定だけど、ここ最近はそれが顕著だ。水龍が泣くと雨が降るという伝説があるが、最近は事件などが多く起こっていて、それに伴い裁判の数も多い。こんなフォンテーヌの現状をもし水龍が見ていたら、そりゃ泣きたくもなるんじゃないだろうかと、完全に泣き出してしまった空を見上げた。
「濡れてしまう。屋内に入った方が良いだろう」
「うーん、でもまだケーキ食べ終わってなくて……」
気遣ってもらったのに申し訳ないなと肩を竦めながらケーキを口に運ぶ。なら、お先に。と、ヌヴィレットさんは屋内に入るのだろうと思ったのに、どういうわけかヌヴィレットさんはケーキを口に運ぶ私をジッと見ていて、移動しようとはしなかった。
「……君は、雨が煩わしくないのか?」
雨が降っていたらよくする他愛のない話。なのに、なぜかそれを私に問いかけたヌヴィレットさんの空気が先程までのものとは違っているように感じた。
「…私は、雨、好きですよ」
「……」
「雨の匂いとか、雨の音とか、雨の日にしか感じられない空気とか。……あっ、あと、雨上がりの晴れ間とかも好きです」
雨が止んで、日が差すあの特別感は雨が降らなければ感じられないものだ。もし私が雨が嫌いならば、霧雨程度とはいえこんなテラス席でティータイムをしたりなんてする事もないだろう。
「…………あっ」
雨の話をし終えたと同時に、本格的に降り出した雨がどういうわけか止んでいく。鈍色だった空が明るくなって、雲の隙間から太陽がチラリと顔を出している。
「あは、急に晴れましたね」
空を指差してヌヴィレットさんに笑い掛けると、なぜかずっと黙っていた彼は、空を見上げると小さく微笑んだ。
「ああ」
太陽の光が向かいに座るヌヴィレットを照らしている。雨空でもその佇まいは美しかったが、日の光を浴びたヌヴィレットさんはまるでこの世のものとは思えないくらい神々しかった。
そんなヌヴィレットさんをまじまじと見ていると、いつの間にかコーヒーを飲み干したであろうヌヴィレットさんが立ち上がった。
「仕事に戻るとする。色々とありがとう」
「いや、私こそお邪魔してすみませんでした!」
慌てて立ち上がり頭を下げると、ヌヴィレットさんがふっと笑ったような気がした。思わず勢いよく頭を上げると、微笑みを浮かべたヌヴィレットさんがゆっくり一度、瞬きをした。
「次は晴れた日に、また共にコーヒーを飲む事ができたら嬉しい」
そう言うと、ヌヴィレットさんは去っていった。雨に降られて肩がぐっしょり濡れている私とは違って、どういうわけかヌヴィレットさんの衣服は濡れていなかったような気がする。不思議な人だ。
水溜まりに反射した太陽の光が眩しい。水龍はもう、泣いていないみたいだ。