それは劇薬

 恋に落ちる瞬間は二つある。雷が落ちたみたいに一瞬で恋焦がれてしまう時と、まるで毒を毎日喰らっていたかのように、気が付けばジワジワと侵食されていた時。前者はもうどうにもならないから仕方ないとして、後者に至ってはタチが悪い。だって、気が付けば頭の中は彼一色で、気が付けば目で追っている。毒に侵食された体を元に戻すのには時間がかかる。つまり、この恋を諦めるにしても並大抵の努力が必要という事だ。ごちゃごちゃと考えてないで追いかければいいじゃないかと思うだろう。私も思った。でも、相手が悪かったのだ。

「手が止まっているが」

 差し込む日の光を気にする事なく読書を続けていたアルハイゼンの唇が動く。正面に座って研究課題を進めていた私は彼の言葉を誤魔化すかのように咳払いをした。
 見ていたの、バレていたのか。ペンをくるりと一度回して視線をアルハイゼンの読んでいた本へと移す。私が見ていたのは貴方ではなくて貴方の読んでいる本ですが?と、いざという時には言ってやろうと瞬時に思い付いた作戦なのだが、教令院に属している者とは思えない稚拙丸出しの作戦だ。くるりともう一度ペンを回すと、「君は」というアルハイゼンの声がして、私は視線をアルハイゼンの顔へと戻した。この世にある美しい光を散りばめたみたいな彼の瞳と目が合う。てっきり本から目を離していないと思っていたから、まさか私の事を見ていると思わなくて心臓が高鳴る。

「集中力が切れるとペンを回す癖がある」

「……ほんと?気が付かなかった…」

 持っていたペンをぎゅっと握る。そ、そうだったのか。ペンを回す癖があるという自覚はあったが、それが集中力が切れた時にする癖だとは思っていなかった。
 アルハイゼンは本を閉じると、椅子に座り直して私の前に広がる研究課題を覗き込んだ。

「……なぜ隠すんだ?」

「な、なんとなく…」

 びっしりと私の字が書かれた紙の上に手を広げ、アルハイゼンが見れないようにすると、アルハイゼンは不服そうにジッと私を見た。だって、私よりもうんと賢いアルハイゼンに研究途中のものを見られるのは何だか恥ずかしい。意見を貰うのは大切な事だが、アルハイゼンは良くも悪くも正直だ。彼に尽く意見という名のダメ出しをされてしまったら私は心が折れてしまうかもしれない。机に突っ伏すかのようにそれらを隠していると、観念したのかアルハイゼンが椅子の背もたれに凭れかかったのが視界の端に見えた。安心して体を起こした途端、アルハイゼンの指が伸びてきて、私が隠し切れていなかった箇所をすっと指差した。

「スペルが間違っている」

「…………ああー!」

「声が大きい。どうした」

「く、悔しくて…」

 結局指摘を受けてしまった事、隠し通せていなかった事。ガックリと私が肩を落とすと、アルハイゼンが自分の口元をサッと手で覆った。ふっ、と聞こえたような気がして目を丸くしてアルハイゼンの顔を凝視すると、何と、アルハイゼンが笑っているじゃないか。笑っているところを見たのは初めてではないが、彼が笑うのはスメールの砂漠に雨が降るくらいすごい事だと私は思っている。こんな彼を見る事ができるなんて、そこそこ特別な人間じゃないと無理なんじゃない?と都合の良い妄想を膨らませていると、どこかからぐぅーと、気の抜けたような音が鳴り響いた。

「……」

「……」

「俺じゃない。君だろう」

 そっと自分のお腹に触れると、もう一度ぐぅーと音がした。そういえば、今日は朝から何も食べていなかった。そして今、窓の外では太陽が傾きかけている。研究の事になると寝食を忘れるのは研究者あるあるだ。とはいえ好きな人の前で腹をぐーぐー鳴らすのは研究者うんぬんより女としてどうなのかと己を恥じ顔を赤くしていると、アルハイゼンが本を仕舞って立ち上がった。

「何か食べに行こう」

「……うん、そうだね…」

 アルハイゼンの優しさが身に染みる。けど、やっぱりちょっと恥ずかしい。机の上に散らばった書類を片付けていると、それを待ってくれているであろうアルハイゼンが小さく「何を食べようか…」と呟いている声が聞こえた。

「私はランバドフィッシュロール!」

「……君はいつもそれだろう」

 アルハイゼンが呆れたみたいに眉を下げる。気の抜けたようなその顔に心臓が大きく跳ねるが、できるだけ平静を装って「そんな事ないよ!」と言っておいた。そんな事ない事はないのだけれど…私がいつもランバドフィッシュロールを飽きる事なく頼んでいるのは紛れもない事実なのだから。
 それにしても、アルハイゼンは私の癖を見抜いていたり、私がいつも頼むメニューを覚えていたりなど、興味の無いものには関心のない彼からするととても珍しい事なんじゃないだろうか。なんて浮かれた事を思い付いたらもうそれしか考えられなくて、もしかしてもしかしてと、期待に胸が膨らんでしまう。いや、でもあのアルハイゼンに恋をした時点で負けというもの。彼の恋人は難しすぎる言語がびっしり書いてある分厚い本なのだから。ないないと頭では思いつつも、気が付けば私の口からはとんでもない言葉が転がり落ちていた。

「アルハイゼンは私の事よく見ててくれてるよね。…勘違いしちゃいそう」

 な、何を言っているんだ私は!と思ったが言ってしまった後に何を思ってももう遅い。カサカサと書類を束ねていた音でさっきの言葉が掻き消されていたとかそういう都合の良い事は起きないだろうか。しん、と静まった室内の空気が重く感じてこの場から逃げ出したくなる。「何を言っているんだ?」「君の気のせいだろう」「そんなつもりはない」と、少しでもショックを受けないように、想像し得るやや残酷な返事を頭の中に並び立てる。しかし、いつまで経ってもアルハイゼンは何も言わない。書類を抱え、恐る恐るアルハイゼンの方を見ると、アルハイゼンは私が振り向くのを待っていたようだった。

「……勘違いしてくれても構わないよ」

 アルハイゼンの目がゆるく弧を描く。え、それって…と言う前にアルハイゼンが私の手を引いた。床に書類が散らばって、ペンが転がり落ちる。じわじわと、侵食されていたのは私だけではないのかもしれない。ランバドフィッシュロールを食べるのは、もう少し後になりそうだ。
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