月影の狼

 今夜、死兆星号を降りる。
 
 実家との折り合いが悪い私はひょんな事から北斗船長に拾ってもらい、この船でお世話になっていた。所謂名家にあたる私の実家の両親は私を家訓に縛り付け、顔も知らない名家の殿方との結婚を急かしていたが、私が長期に渡る家出をした事により考え方を正してくれたようだった。様々な事情を抱えた人達が乗るこの船はとても居心地が良く、願う事ならずっとここに居たいと思っていたが、帰る家があるならば帰った方が良いと色んな人に背中を押され、私はこの船を降りる決意をした。
 船内の自室で荷物の整理をしていると、化粧台の中から赤い楓の葉があしらわれた簪が出てきた。手に取り、これを贈ってくれた人物の顔を思い浮かべる。心残りは居心地の良いこの船の雰囲気と、あとひとつ。

「……万葉」

 転がり落ちるように口から出た名前に胸がきゅっと締め付けられる。
 万葉と、離れたくないなぁ。この船を降りる事になってからずっと思っている事。思えば思う程それは波紋のように胸の中に広がっていく。私が居なくなってしまう事、彼はどう思っているのだろうか。聞きたいけど聞けずにいる。何故ならこの船を降りると告げた時も彼は穏やかな笑みを顔に貼り付けていたのだから。
 溜め息を溢しながら彼の瞳の色と同じ楓の飾りを指で撫でていると、部屋の扉を叩く音がした。

「……少し、良いか?」

 聞き覚えのある柔らかい声に心臓が跳ねる。深呼吸をしてから「どうぞ」と言うと、今まさに私の頭の中を支配している人、楓原万葉が遠慮がちに私の部屋へと足を踏み入れた。

「お主にこれらを返していなかったと思ってな」

 差し出された物は万葉に貸していた数冊の本で、てっきり引き留めにでも来てくれたのかと思い浮かれた心がずんと沈んでいく。

「わざわざありがとう」

 差し出された本を受け取ると、一番上にある本の表紙と目が合った。
 それは竹から生まれた美しい女の子が数人の男性に求婚されるが、最終的に誰も選ばず月へと帰って行くというお話だ。特に美しくもなければ、求婚されたわけでもないけれどなんだか少し、図々しくも今の自分の立場と被ってしまう。

「…万葉は、さ」

「ん?」

 本を胸に抱き、万葉の目をじっと見ると、万葉が首を傾げる。ああ、何を言おうとしてるんだろう私は。けれどもう彼と会えるのは今日が最後かもしれないんだし…

「この本みたいに、好きな人が月に帰ってしまおうとしていたら、万葉ならどうする?」

 万葉が目を見開く。い、言ってしまった!赤くなった自分の顔を隠すように慌てて俯くと、私の手に握られていた簪に万葉が手を伸ばした。

「……これを贈ったというのに、月に帰るなどと言い出すのだから、拙者もその本の求婚者達と同じ末路であるなと思ってはいたが…」

「……え?」

 顔を上げると、万葉が簪を私の髪へとゆっくり挿した。万葉の言ってる言葉の意味が分からず、彼の顔をじっと見ると、万葉はいつもの穏やかな表情とは違う真剣な眼差しで私を射止めた。

「月になど、帰らせぬよ」

 不敵な笑みを浮かべると、赤い瞳がそっと伏せられる。重なり合った唇はすごく熱くて、けれどそれがどちらの熱なのかなんて考えている余裕などない。
 私の手を力強く握る万葉の手に、元より帰す気などさらさらなかったのだなと、熱に浮かされた頭でぼんやりと思うのだった。
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