桜花のみ知る君の

 桃色に薄く色付く花弁がとても綺麗で、彼に見せてあげようとその枝を手折ると、私の手よりも少しだけ大きな白い手が重なった。
 はたと、楓色をした瞳と目が合う。彼は目を伏せると微笑みを浮かべたまま首を横に振った。

「折ってはならぬ」

 なぜ?と今よりもうんと幼かった私は言った。今ならば桜の木の枝を折るだなんて罰当たりな事はしてはいけないという事くらい分かるが、幼いあの頃の私には彼が何故ならぬと言うのか意味が分からなかった。
 彼は「うむ…」と呟き、腕を組んで眉間に皺を寄せる。私が瞬きを数回繰り返しているうちに、薄い唇がゆっくりと開いた。

「痛いと、言っている」

「…桜が?」

 首を縦に振る彼に、私は何と答えたのだろうか。意識が遠のく。幼い彼の姿が段々白んでいく。ああ、いつもここまでだ。いつもここで目が覚めてしまう。鳥の囀りがはっきり聞こえたのと同時に、私は目を覚ました。

「…夢」

 見慣れた天井と、朝を告げる鳥の囀り。そしていつも見る夢。ゆっくり起き上がると、枕元に置いてある楓の葉の栞と目が合った。
 私の幼馴染である楓原万葉が稲妻を去ってどのくらい経っただろう。稲妻に滞在する事が難しくなった。自分の知り合いであるという事は隠しておいた方が良い。と言うと、万葉は姿を消した。その翌日に万葉は稲妻全土に指名手配犯として名が広まってしまった。意味が分からなかった。あの優しくて穏やかな万葉が何故?と信じられないでいたが、社奉行の側近であり情報通のトーマが、万葉は御前試合で負けた友の神の目を手にし逃亡したとこっそり教えてくれた。それを聞いて何とも彼らしいと安堵したのを覚えている。
 それにしたって、万葉はいつ帰ってくるのだろうか。目狩り令はある日突然廃止され、稲妻は前ほども窮屈で息苦しい国では無くなった。なのに、万葉がいなくては意味がない。心に空いた大きな穴が一向に埋まらない。溜め息を吐きながら布団を出ると、ドンドンと玄関の扉が大きな音を立てた。何事かと身なりを整えて玄関へと走る。こんな朝早くから一体何?不審者?と扉に手を掛けられずにいると、「俺だよ!俺!」と聞き覚えのある声がしたので慌てて扉を開けた。

「トーマ?どうしたのこんな朝早くから…」

「ごめんごめん!でも君に一刻も早く伝えたくて」

 走って来てくれたのだろうか。肩で息をするトーマの口が忙しなく動く。そしてその言葉を聞いた途端、私は走り出していた。「気をつけて!」とトーマの明るい声が響く。
「万葉が乗っている死兆星号が港に停泊している」「今なら会えるかもしれない」トーマが言っていた事を頭の中で何度も繰り返す。万葉が帰ってきた。ただふらりと稲妻に寄っただけかもしれない。けれど、彼に会えるのなら何だって良い。一目だけでも彼の顔が見たい。微笑みを浮かべる彼の顔を見る事ができたのなら、私はこれから長い間万葉に会えなくなってもその笑顔を糧に頑張れるから。
 こんな風に全力疾走したのはいつぶりだろうか。幼い頃に万葉と追いかけっこをよくしたっけ。その時ぶりな気がする。何から何まで私の思い出や考える事には万葉はつきものなんだなと思うと笑えてくる。
 必死に足を動かしていると気が付けば港は目前で、乱れる呼吸を整えながら、ぐしゃぐしゃになった髪を手で梳かす。速る心臓を落ち着かせるかのように胸に手を当てて港に連ねる船をひとつずつ確認していく。死兆星号は船首に龍の首のようなものが付いた派手な船だとトーマは言っていた。けれど、どの船を見たってそんな派手な船は見当たらない。嫌な予感が胸の中へと広がっていく。居ても立っても居られなくなって、近くにいた人へと声をかける。その人が指を差した先に見えたものを見た途端、私は地面へと膝をついた。



「…はぁ」

 ごつり、と鈍い音がした。桜の木を抱き抱えるようにして、その木の幹へと額を当てる。この桜は毎晩のように夢に見る幼い頃の万葉と私の夢に出てくる桜の木だ。一体樹齢何年になるのだろうか。幼い頃から共にあるが、大きくなる事もなければ枯れる事もない。そんな桜の木が少し羨ましく思えた。幼い頃の私は万葉とずっと一緒にいられるのだと思っていたし、その思いを恥ずかしながらもつい最近まで抱えていた。けれど、彼が稲妻を発ってしまってからはそれは儚い幻想に過ぎなかったのだと実感した。変わらぬ物、変わらぬ思いなんて、滅多に無いのだ。
 港で声を掛けた人が指差す先にあったのは死兆星号で、それは私が港から精一杯叫んだところで届くわけがない距離まで進んでいた。
 間に合わなかったという事実よりも、万葉が私に会いに来てくれなかったという事実が私の胸を酷く痛めつけた。思い上がりも甚だしい。片腹痛い。惨め。自分を蔑む言葉が次から次へと脳裏に浮かぶ。だって、会いたいのは私だけという事じゃないか。稲妻に寄ったのなら会いに来てくれても良いじゃないか。けれど、万葉の頭の中にはその考えはなかったという事。きっと私なんてそれだけの存在なんだ。
 鼻の奥がツンとして、じわりと涙が滲む。心臓が握られたみたいに痛む。
 馬鹿みたいだ。会いたい会いたいと私がいくら思ったところで、万葉が思っていなければただの独りよがりじゃないか。
 花の咲いていない桜の木はとても寂しげで、私と木の間を通り抜ける風が冷たくて、それらが私の涙腺を益々刺激する。ぽたぽたと落ちる涙が木の幹を濡らしていく。きっと、万葉は同じ気持ちではないのだろう。
 なのに、まだ、こんなにも会いたい。
 ぎゅっと目を瞑った。ああ、このまま寝てしまいたい。そしたらまたあの幼い頃の夢を見て彼に会えるだろうか。
びゅうっと風が激しく吹いたかと思えば、私の頬に冷たい何かが触れた。

「…家に居ないと思えば、こんな所で何を?」

 穏やかで、人を安心させる声。聞きたくて聞きたくて仕方がなかった彼の声が聞こえた。夢だろうかと思ったが、頬に触れる冷たい指先が現実味を帯びていたので、はっと目を見開いた。

「………万葉」

「うむ。久しぶりであるな」

 楓色の瞳を細めて笑う彼は、夢なんかじゃない正真正銘本物の万葉で、会いたくて仕方がなかった彼の姿に、ぱちりと瞬きをしたら涙がぼろりと零れ落ちた。それを見ると万葉はふっと微笑んで私の頬を伝う涙を指で掬った。

「……お主はいつも泣いている」

「………そうだったっけ」

「ああ。幼い頃もよく泣いていたのを覚えている」

 楽しい思い出ばかりが蘇って、万葉の言う泣いている自分を思い出せずにいると、「犬に追いかけられた時」「母君に叱られた時」と幼い私が泣いていた時の事を万葉が指を折って数え出した。恥ずかしくなって慌てて指を折る万葉の手をぎゅっと握ると、万葉の指が私の手に絡みつく。あっという間に包み込むかのように握られた手は幼い頃とは違って一回りも大きくて、成長して立派な男性へとなった彼に喜ぶ反面、少しだけ寂しくもなる。
 ちらりと万葉の顔を窺うと、万葉は私の顔を穏やかさとはかけ離れた険しい顔で見ていた。ぎょっとしてたじろぐと、万葉は私の手を強い力で握り直した。

「…お主が泣き虫なのは分かっておるが、そんな顔をして泣かせたのは、一体誰でござろう」

 怒気を含んだ低い声色に、万葉が怒っているという事が伝わってくる。さあ、早く。とでも言いたげな万葉の顔が迫ってくるが、本当の事など言えるわけもなく視線を泳がせていると、万葉は私から手を離しその手を腰へ差している刀へと掛けた。

「…心当たりのある者をこの刀で…」

「ま、待って待って!言うから!」

 ふむ、と言うと万葉は満足気に刀から手を離した。こうすれば私が言うと分かっててやったんだろう。してやられたが、言うからと言ってしまった手前後には引けない。

「…えっと…か、万葉…」

「………拙者でござるか?」

 予想してなかったであろう答えに万葉が目を見開く。ああ、言ってしまった。何故自分なのかとでも言いたげに動揺する万葉にもうここまできたら言ってしまえ!と自然と口が動いた。

「…万葉が帰って来たって聞いて、万葉に会えると思って港に行ったの。そしたら船がなくて…万葉は私に一目も会いに来てくれないんだと思ったら悲しくなって…」

 段々口が動かなくなってくる。それもそうだ。本人を目の前にしてまるで子供のように泣いていた理由を話しているのだから。徐々に顔に熱が集まってきたのが分かり、思わず俯くと、私の話を黙って聞いていた万葉が「…それは」と小さく呟いた。

「…船が港になかったのは、堂々と停めておくのは良くないと判断して場所を変えただけでござる」

「…そ、そっか」

 確かにあんな派手な船を港に停めていたら何も知らない人が見たら海賊でも現れたんじゃないかと驚いてしまうだろう。よく考えたら分かることじゃないかと、言ってしまった事を後悔した。
 俯く私の頬へ少し熱を持った指先が触れた。反射的に顔を上げると、愛おしさを隠そうともしないような柔らかな笑みを浮かべた万葉と目が合った。

「…不安にならずとも、お主の元に帰ってくるに決まっているであろう?」

 その言葉を聞いた途端、目から涙がぽろぽろと溢れ出す。きっと今の私は情けなくて、みっともない顔をしているだろう。慌てて両手で顔を隠そうとしたが、隠すよりも前に何かが額へとぶつかった。それは万葉の肩で、上目遣いで彼の顔を見ると、万葉は泣きそうな、けれどどこか嬉しそうな笑みを浮かべながら私を抱き締めた。

「拙者に会えなくて、寂しかったでござるか?」

「……とてもね」

「拙者もでござる」

 当たり前だろうとでも言うかのようにはっきりと告げられたその言葉に、ズキズキと痛んでいた胸にあたたかいものが広がっていく。
 船に乗ってまた何処かへ行ってしまったわけじゃなかったんだ。万葉は私に会いに来てくれた。そして自分も寂しかったと言ってくれた。これ以上に嬉しい事なんてあるのだろうか。彼の背中に腕を回すと、万葉はまるで確かめるかのように私の体をぎゅうぎゅうと強い力で抱き締めた。

「……分かっている」

「……なに?」

「……いや、桜が少々騒がしくてな」

 桜が?今は風も吹いていなければ、枝が揺れているわけでもない。首を傾げて万葉を見ると、万葉はふふっと声を上げて笑った。

「…覚えているか?幼少の頃、お主が桜の枝を折ってしまった時の事を」

 ふと今朝の夢が蘇る。首を縦に振ると、万葉は花のついていない桜の枝を懐かしそうに仰いだ。

「…あの時、拙者は万物の声が聞こえる事をお主に話した。そしたらお主は何と言ったと思う?」

 その続きは、何度夢で見ても思い出せない。私が黙っていると、万葉は口元に手を当て可笑そうに笑った。

「お主は、素敵だねと言ったのだぞ?」

「…そ、そうだっけ」

「うむ。万物の声が聞こえるという事を伝えると、大体の者は異端の者を見る目で拙者を見た。しかし、お主は曇りのない目で拙者の能力を肯定してくれた。とても、嬉しかったのだ。その事を拙者は今でも昨日の事のように覚えている」

 言われてみれば、そのような事を言ったような気がする。夢の続きの真相を知れてなんだかすっきりした気分だ。それにしたって万葉は未だその能力を持っているという事だろう。さっきも桜に何やら声をかけていたのだから。

「で?さっき、桜は何て?」

 私がそう言うと、万葉はバツが悪そうに頭を掻いた。その反応に万葉が来る前に桜の木に抱きついていた事と、涙をべっとり付けてしまった事を思い出し身が跳ねる。もしかして、その不敬な女を引き剥がせ!とか土下座しろ!などと言われたのだろうか。さーっと血の気が引いていく。そんな私の様子を見て万葉は「嫌な事を言っているわけではない」と慌てて訂正をした。それなら良かったけれど、なら何故万葉は口を噤んでいるのだろうか。すると、万葉は観念したかのようにふぅと息を吐いた。

「……早く言ってしまえと、言っている」

「…何を?」

 万葉は私の体からそっと腕を離すと、赤い顔を隠そうともせずにこちらを真っ直ぐ見た。その真剣な眼差しに、万葉に聞こえてしまうんじゃないだろうかというくらい心臓が大きな音を立て出した。

「驚かないで聞いてほしい。拙者はお主の事が──…」

 ざあざあと桜の木が風に揺れる。それはまるで私達の再会を祝福しているようだった。

 
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