船長から「アタシは使わないからあんたにやるよ」と渡された爪紅。船の上の生活は水仕事や力仕事が日常茶飯事で、爪紅を塗る機会なんて滅多になかったし、そもそも爪紅を手に入れたのも初めてだ。そんな船長からの突然の贈り物に浮き足立ち早速爪に塗ってみたが、爪に色が着いているだけでこうも気分が違ってくるのかと驚いた。
こんな女の子らしい色の爪紅、私に似合っているだろうか?万葉に笑われてしまわないだろうか?と意中の彼の穏やかな笑みを思い浮かべ胸を高鳴らせていると、おーいと私を呼ぶ声がした。
昨夜の飲み会の洗い物をしてやってくれ、これをあちらへ運んでくれと、いつもに増してする事が多い。少しだけ色が剥げてしまった爪を見て溜め息がこぼれる。いや、勝手に爪紅を塗って、剥げたからといって凹んでいるなんて自分勝手な事をみんなに悟られるわけにはいかない。気を取り直して顔を上げると、トントンと誰かに肩を叩かれた。振り向く直前にふわりと香るお日様の匂いにもしかしてと思ったが、紅葉を彷彿とさせる紅色と目が合いそれは確信へと変わった。
「少し、良いか?」
突然の思い人の登場に目を見開くと、万葉は不思議そうに首を傾げた。慌てて「どうしたの?」と平静を装ってみるが、動揺して声が上擦ってしまった。そんな私に万葉は目を細めると、私に声を掛けた理由を話し出した。倉庫の鍵を私が持っていると聞いたらしき彼は私に鍵を借りにきたようで、ポケットから鍵を取り出し彼に渡すと、何故だか万葉の動きがピタリと止まる。ん?どうしたの?と言おうとした直前に万葉は鍵を受け取り「かたじけない」と言って踵を返した。
何だったのだろうかと、彼が去って行った方を見て首を捻るが、もしかしてと自分の爪をまじまじと見る。いつもと違う桃色の爪に万葉は気付いてくれたのだろうか。少しは女性らしいと、可愛いと、思ってくれただろうか。少し剥げた爪紅で沈んでいた気持ちが簡単に浮上していく。素敵な物をくれた船長にもう一度お礼を言わなくちゃね。
◇
時間になると所定の位置にちょこんと座っている万葉の姿が見当たらない。夕飯時になると宴会のように騒ぎ出す船内では誰がどこにいるかなんて把握している者はほぼ居ないだろう。なので万葉が居ない事に気付いているのは恐らく私だけで、きょろきょろと辺りを見渡してみるが、やはりあの目立つ銀髪はどこにも居ない。そういえば倉庫の鍵を渡してから彼の姿を見ていない。もしかしてと思い私は倉庫へと走った。
倉庫の前まで辿り着き、扉を開ける。電気を点けようと壁に手を這わせているうちに気付けば扉が閉まってしまった。これじゃ真っ暗で何も見えないと思いもう一度扉を開けようとしたが、どういうわけか扉はまるで鍵を掛けられているかのように一向に開かない。
「…え?なにこれ」
「不思議でござる」
突然背後から聞こえた声に体が大きく跳ねる。聞き覚えのある声に恐る恐る振り向くと、薄暗い室内の中、万葉が腕を組んでいるのがぼんやり見えた。
「万葉?一体何してるの!?」
「お主に鍵を借りてこの部屋の中に入ったら閉じ込められてしまってな。扉を壊すわけにはいかぬ故、誰かが近くを通ったら声を掛けようと待っていたのだが…」
バツが悪そうに万葉が頬を掻く。待っていたのだが?その続きは?催促するかのように万葉をジッと見ると、万葉は開き直ったかのようにあっけらかんと笑った。
「気付いたら寝てしまっていたでござる」
あはは、と笑う万葉に彼らしいなと私も笑顔を向けると、万葉は丁度置かれていた椅子へと腰掛けた。それをぼんやり見ていると、万葉が自分の横をぽんぽんと手で叩いた。隣に座れ、という事だろうか。それに従い万葉の隣に腰を下ろす。
よく考えたら密室に万葉と二人きりだなんて彼と仲を深める大チャンスではないか。そう自覚した途端に心臓が大きな音を立て始める。脈打つ音が万葉に聞こえてしまっていないだろうかといらぬ心配をしていると、いつもならこういう時に話題を提供してくれる万葉が黙りこくっている事に気が付いた。薄暗くて彼の表情は窺えないが、何だか少し様子の違う彼に浮かれていた気持ちが段々不安なものへと変わっていく。もしかして私と二人きりな事が嫌なのだろうか。いやいや、万葉はそんな事を思う人ではない筈。と脳内で問答を繰り返していると、万葉の指がすっと私の手を指差した。
「…それは」
「え?」
万葉の指先と視線の先にあるのは色付いた私の爪で、やはり気付いてくれていたんだと嬉しく思ったが何故だか浮かない表情の万葉に、舞い上がった気持ちが徐々に萎んでいく。
「…何故、爪紅を?」
「…も、もしかして、似合ってない?」
「いや!とても似合ってはいるのだが…」
その…と言うと万葉は口を閉ざしてしまった。たらりと汗が額を流れる。何なんだろう、私が爪紅をしていると万葉は何か都合が悪いのだろうか。万葉の言葉の意図がさっぱり分からず俯く彼の横顔をジッと見ていると、万葉は意を決したかのように小さく息を吐いて私を見た。その頬がほんのり色付いているような気がしたが、薄暗いこの部屋ではその真偽を確かめる術はない。
「…好い人が、居るのでござるか?」
「へ?」
真剣な表情で私を見る万葉とは裏腹に、間抜けな声が出てしまった。何故好い人云々の話になるのだと思考を巡らせるが、爪紅を塗って色気付く私は万葉の目にはそのように映っていたという事なのだろうか。あながち間違ってはいない。だって私は万葉の事が好きなんだし。
ぎこちなく首をゆっくり縦に振ると、万葉の目が大きく開かれ、そして万葉はガクリと項垂れた。あれ、何でそんな反応をするのだろう…目に見えて落ち込む彼にもしかしてと都合の良い期待をしてしまう。桃色に色付いた指先をぎゅっと握って、私は恐る恐る口を開いた。
「…でも、その人に気付いて貰えたの」
「…そうか」
「ね、気付いてくれたでしょ?」
私がそう言うと、万葉が勢いよく顔を上げる。それと同時に私たちの居る部屋の扉が大きな音を立てて開いた。大丈夫か?閉じ込められてたのか?と船員達がゾロゾロと室内へと入ってくる。腹が減っているだろうと食堂へと船員達にぐいぐいと背中を押される。私と同じように背を押される万葉の横顔をチラリと見ると、万葉もこちらを見ていたようでぱちりと目が合った。
「……とても、似合っている」
小さな声で呟かれたその声に顔が熱くなる。桃色の私の爪と同じ色をした万葉の頬。そして、きっと今の私の顔も同じ色をしている事だろう。