青空を泳ぐ雲と云えば良いのか、それとも波間を漂う海月と云えば良いのか。雲として例えるならそれは掴んでも掴んでも指の隙間からすり抜けてしまうし、海月に例えるならそれは掬っても救っても水と同化してふよふよとどこかへ行ってしまう。
それくらい、楓原万葉という男は捉えどころがなく、一筋縄ではいかない男だ。
紅い花の簪も、金木犀の練り香水も、桃色の新しい着物も、全部全部万葉の為の物なのに、万葉はそれらを見ても「お主にとても似合っておるな」と言い、誰にでも向けるあのあたたかな笑みを顔に浮かばせるのだ。
彼の特別になりたくて、見た事のない顔が見たいのに、その願いはなかなか叶わずにいた。
「万葉!」
稲妻城から少し離れた人気のない所。ここはいつも万葉が刀の修行をしたり芝の上にごろりと寝転がり空を眺めたりしている場所で、どこを探しても万葉の姿が見当たらない時、彼は決まってここにいる。
私の声を聞くと、刀の素振りをしていた万葉が顔を上げる。稽古をしていたからか白く滑らかな頬が少し赤く色付いていて、こめかみからはつぅと汗が滴り落ちている。そんな扇状的な光景に思わず唾を飲み込むが、こんな邪な気持ちを悟られるわけにもいかないので、私は慌てて笑顔を浮かべて万葉の元へと近寄った。
「お主であったか」
「うん!稽古お疲れ様」
薄紅を引いた私の目元に気付いてくれただろうか。ぱちぱちと瞳を強調するかのように瞬かせ万葉と目を合わせると、万葉は私の瞳を見て、ふと何かに気付いたような顔をするが、彼は何も言わずに口角を上げた。な、なんで!気付いてくれたと思ったのに…と一瞬肩を落とすが、新しいお化粧に気付いてほしくて万葉の元に来たわけではない事を思い出す。後ろ手に隠していたお弁当箱を「じゃーん」と言って万葉に見せると、万葉は「おお!」と言い益々口角を上げた。
「作ってきたの。良かったら食べて」
お弁当の蓋を開けて中身を万葉に見せると、万葉は色とりどりのおかずが並ぶお弁当の中身をじっと見ると、にこりと微笑んだ。
「ありがたく頂戴しよう」
芝生の上に座った万葉の隣に腰掛ける。美味しそうにお弁当を頬張る万葉を見ていると幸せな気持ちになる。
…けれど、胸には罪悪感が広がっていた。
形の良い卵焼き、味が染みた魚と大根の煮込み、程良く衣がついた緋櫻の天ぷら。これらは全て木南料亭にて注文をして、私がお弁当箱に詰め直したものだ。料理が全くできないというわけではないが、私が作った不恰好な料理を万葉の口に入れるくらいならばと考えた結果、こんな狡い手を使ってしまった。
万葉が頬を緩ませながら料理を口に運ぶ度に気持ちはずんずんと沈んでいく。自分でした事なのに、なんだか情けなくて、狡くて、心臓がズキズキと痛む。
「…とても美味しいのだが…」
聞こえた声にハッとして万葉を見ると、万葉は箸を置き、私の耳元に顔を近づけた。至近距離で香る万葉の香りに体が硬直する。
「次はお主の手料理が食べたいでござる」
その言葉に身体中がさーっと冷たくなっていく。え?どういう事?木南料亭で買った料理だって事がバレていた?それよりも私の手料理が食べたい?
万葉の言葉がぐるぐると頭の中を巡る。彼の顔を見る事ができず目の前に広がる芝をただひたすら見つめるが、目の前の景色など今の私の目には映っておらず、何をどう言い訳しようかと考えるので精一杯だった。一番大好きな人に、狡い事をしていたのがバレてしまった。どうしよう。どうしよう。じわりと目の端に涙が滲む。すると、零れ落ちそうだった私の涙を白くて細い指が掬い上げた。それは言わずもがな万葉の指先で、薄紅が落ちて桃色に色付いた私の涙を万葉は迷いなくぱくりと自分の口の中に運んだ。
「えっ!なっ…」
なんで!?と口にしようとしたのに、気付けば目の前には万葉の顔があって、私は思わず息を止めた。反射的にぎゅっと目を瞑ると、目元にあたたかい感触。そっと目を開けると、微笑みを浮かべた万葉と目が合って、その唇は薄紅に色付いている。目元を、涙を、舐められたのだという事に気付いて全身がこれでもかという程熱くなった。
「…新しい簪も、香りも、着物も、化粧も、そしてこの差し入れも、全て拙者の為であろう?」
「……き、気付いてたの?」
微笑みを浮かべたまま万葉が頷く。気付いてたなら言ってくれれば良いのに、という顔を私がしていたのだろう。そんな私を見て万葉は益々満足そうに笑った。
「…幻滅したでしょう?お弁当を作ってきたなんて嘘を吐いて…」
またしても涙が滲む。ああ、恥ずかしい。最悪。嫌われたかも。頭の中がぐちゃぐちゃで、もうどうにでもなれという気になってくる。泣き顔を隠す事さえ忘れて万葉の顔をじっと見ると、慈しみを込めた万葉の瞳が私を捉えた。
「いや、幻滅などせぬ。拙者の為に頑張るお主は、いっとう可愛い」
え?と思った時には目の前には万葉の顔があって、いつの間にやら腰の辺りにあった彼の手が私を引き寄せる。額が触れて、鼻先が触れて、そして唇が触れる。唇から伝わる万葉の熱に、まるで夢でも見ているかのような微睡んだ気分になってくる。ちゅ、という音がして唇が離れると、万葉の顔が私の耳元へと寄せられる。
「もう一度言う。今度はお主の手料理が食べたいでござる」
良いな?という掠れた声に頷くと、耳をぺろりと舐められた。
新しい簪も、香りも、着物も、化粧も、美味しい料理も、そんなもの無くったって、万葉はとっくに振り向いてくれてたのかな。今度、拙い私の手料理が詰め込まれたお弁当を持って行った時に、聞いてみよう。