その青を手に


 見上げればそこに広がるのは薄灰色のコンクリート。その真ん中に正方形に開いた穴には硝子が嵌め込まれていて、そこから青空が顔を覗かせている。
 魔鱗病を発症してから、私はこの空間に閉じ込められている。六畳あるかないか程度の全面がコンクリートに覆われた窮屈な部屋。壁一面に置かれた本棚は両親が退屈しないようにと差し入れてくれた本がぎっしりと詰まっている。ここでの生活は数年。勿論全ての本を読み尽くしてしまった。ベッドの上でただ時間が流れていくのを待つだけの日々。こんなの、生きている意味があるのだろうか。ある日を境に魔鱗病患者に現れる鱗のような痣は綺麗さっぱり消え失せた。きっと、私はもう完治してる。スメールでは魔鱗病の患者は全て完治したらしい。なのに、私の両親は未だ私をこの部屋へと閉じ込めている。心配だから、そう言えば自分達の行動は全てあなたへの愛が原動力であるのよと言っているみたいだ。まるで、呪いのよう。
 退屈だ。本はもう何回も読み直して、ほぼ全ての内容を覚えているくらいだし、壁のヒビ割れを数えるのも飽きた。最近の暇つぶしはというと、天井に設置された窓から空を眺める事くらいだ。鳥の一羽でも迷い込んできてくれたら言葉は分からないけれど、話し相手になってくれないだろうかと、部屋の片隅に置かれた棒を使って、日中は窓を開けておいてあるが、鳥だってバカじゃない。顔を覗かせても中には入ってはきてくれず、ただただ移り変わる空の色を眺めているだけになっている。けれど、少しでも外の空気が流れ込んでくるだけで気分は良くなる。ベッドを窓の下に移動させて、仰向けに寝転がる。草と、花の香り。たまに美味しそうな匂いもしてくる。はぁ、早く両親を説得して外に出してもらわないと。もう一度、グランドバザールを走り回って、美味しいものを食べて、色んな洋服を買って普通の暮らしがしたい。気持ちが沈んでいくのを感じて、ぶんぶんと頭を振る。こんな風な事ばかり考えているとおかしくなってしまう。気分転換に歌でも歌おうか。そしたら空を飛んでいる鳥が羽を休めついでに中に入って聞きにきてくれたりして。そんなお伽話のような事を考えながら昔耳にした事のある童謡を口ずさんでいると、頭上から何やら音がした。まさか本当に鳥が?と慌てて顔をあげると、そこに居たのは鳥よりもうんと大きい人影だった。
 
「下手くそ」
 
 大きな傘を被った、意地悪な笑みを浮かべた少年が窓からこちらを覗いている。まさか人が現れたなんて…というよりも、私の家は五階建てで、そしてこの部屋は五階に位置する。周りには大きな建物もないし、梯子も掛かっていない。なのに、彼は一体どうやってここに辿り着いたんだろうか。驚きのあまり口をぽかんと開けて少年を見ていると、少年は私とそしてこのコンクリートに覆われた部屋を見ると、忌々しそうに舌打ちをした。
 
「何なのここ?」
 
「…何って、家…だけど」
 
「家?…へぇー、随分良い暮らしをしているじゃないか」
 
 その言葉の意味を理解できない程バカではない。彼は私がここに閉じ込められている事を察したんだろう。思わずぐっと眉間に皺を寄せると、彼は片眉を吊り上げてにやりと笑った。
 
「君、随分能天気そうに見えるけど、見かけによらず悪い事でもしたの?」
 
 彼は私が悪い事をしたからここに閉じ込められていると思っているみたいだ。黙って首を横に振ると、少年は「ああ」とどうでも良さそうに呟いた。
 
「悪い事をしたならこんなところにいつでも逃げられるような窓があるわけないか」
 
「…逃げられないよ。高くて、手が届かない」
 
 手を伸ばしても窓までの距離は一メートル程あり、手が届くわけがない。「ほら」と試しに手を伸ばしてみると、彼はそんな私の様子を無表情で眺めている。なぜか急に何も話さなくなってしまった彼に額に汗が滲む。もしかして、この人は強盗か何かだろうか。そうでなければこんなところに居るわけがない。派手な見た目も不遜な態度も何だか怪しい。さっきまで何も考えずに話していたというのに、今になって焦りで心臓が速くなる。扉の横に設置されている呼び鈴を使って両親を呼ぼうか…と考えていると、少年は大きな溜め息を吐いた。
 
「そのベッドの上に、そこにある椅子や本棚を積み重ねたら手が届くと思うけど?」
 
「え?」
 
「つまらないね、君」
 
 そう吐き捨てると、少年は姿を消した。
 気が付けば空は橙に色を変えていて、ひゅうと冷えた風が窓から滑り込んできた。
 一体、彼は何だったのだろう。白昼夢でも見ていたかのような不思議な気分だ。棒を手に持ち窓を閉めると、もう一度ベッドに仰向けになった。
 
「手が届く、か…」
 
 部屋の隅にある椅子と本棚を眺めながら、彼の放った言葉を反芻していたら、気付けば私は夢の中へと落ちていた。
 
 ◇
 
「間抜け面」
 
 目が覚めて飛び込んできた景色は、昨日現れたあの少年の意地悪をたっぷり含んだ笑みで、それと同時に掛けられた言葉にまたしてもポカンとしていると、もう一度「間抜け面」と彼は言い放った。鳥の囀りと、窓から漏れる日の光。それら全てを遮ってまるで無様な物でも見下すかのように彼は私の事を見ていた。
 
「また来たのかって顔だね」
 
「…あなたは何者なの?」
 
「さぁ?何者なんだろうね」
 
 わざとらしく穏やかな笑みを貼り付けると、彼は肩を竦めてすっとぼけた。怪しい人?というより変わった人という印象の方が強い。目的は分からないけれど、強盗などではなさそうだ。もしそうだったら私の事なんて黙らせてとっくに家へと侵入しているだろう。彼が口を開くのを待っていれば何か自分の事を話してくれるだろうかと思っていたが、少年は何も話さず私の事をじっと見ている。いや、私を見ているのだが、彼の瞳には別のものが映っているようなそんな気がした。私を通して何かを思い出しているようなその眼差しに首を捻るが、やはり少年は何も反応を示さない。痺れを切らしてもう一度ベッドの上にごろんと寝転がって少年を見上げると、彼は不服そうに眉間に皺を寄せた。
 
「僕が言えた事じゃないけど…君、不用心なんじゃない?」
 
「……本当に悪い人なら、今こうして私とお喋りしてくれないと思うの」
 
「ならこの窓から君の家に侵入して君の生活をめちゃくちゃにしてあげようか?君は鳥籠の中の生活を気に入っているんだろう?」
 
 悪い人ではないと思うが、意地悪な人なのだという事なら昨日初めて会った時から感じていたが、それは恐らく当たっているのだろう。顔を歪める私を見て愉快そうに笑う彼はやはり意地悪そのものだ。
 
「…気に入ってるわけないでしょ」
 
「……なぜここに?」
 
 調子良く、癪に触るようなトーンで話していた彼の声がふっと落ち着く。それと同時に常に笑顔を貼り付けていた顔も、憂いを帯びているような表情へと変わる。
 ガラリと雰囲気が変わった彼に内心驚きつつも、私は魔鱗病を発症してからここに閉じ込められている事、魔鱗病が完治しても両親がここから出してくれない事を彼に伝えた。全てを話し終えると、彼は苦虫を噛み潰したかのようなそんな顔をして、「ふん」とまるでくだらないとでも言うかのように鼻で笑った。
 
「もうありもしない病に怯えて娘をこんなところに閉じ込める君の親の愛情は素晴らしいものだ」
 
「…皮肉はやめて」
 
「そんなものが愛だと思うのかい?」
 
 彼の言葉がぐさりと胸に突き刺さる。ずっと誤魔化していたものと無理矢理向き合わされたような気分だ。
 両親は私を愛していると思うし、心配だから外に出さないというのは彼等なりの愛の形であると理解している。しかし、それは彼等の自己満足であり、私の事を考えてくれているようで愛を押し付けているだけにすぎない。
 
「ただのエゴなんじゃないの?」
 
 彼の発した言葉に何も言えずにいると、少年はどこからか法器のようなものを取り出して何かを描くかのように指をすいすいと動かした。何をしているんだろうとそんな彼の指先を見ていると、部屋の隅にあった椅子がガタガタと音を立てた。
 
「な、なに!?」
 
 音を立てていたかと思うと、椅子がふわりと浮いて私目掛けて飛んでくる。慌ててベッドから起き上がりその場を飛び退くと、椅子がベッドの上へと乗っかって動きが止まった。なに?何が起こったの?ハッとして少年を見上げると、少年は無表情でこちらを見下ろしていた。すいすいとその指先がまた動いたかと思うと、次は本棚がガタガタと動き出して、仕舞われていた本が一斉に飛び出し床へと散らばった。きっと私よりも重いであろう本棚がふわりと浮いて、そしてベッドの上にある椅子にもたれ掛かるかのように倒れた。
 
「ほら、これで君はここを抜け出す事ができる」
 
 積み重なった椅子と本棚の上に立てば、彼の居る窓へ手が届くだろう。ここから抜け出せるのだと思うと、心臓が高鳴った。けれど…チラリと扉に目をやると、それを見逃さなかったのか頭上で彼がふっと笑ったような気がした。
 
「ここで飼い慣らされて腐っていくか、それとも大空に羽ばたいて自由になるか、決めるのは君自身だよ」
 
「…」
 
「…けど、自由が良いものだとは限らない」
 
 丁度太陽が彼の後ろにあって、逆光で彼の表情は分からない。どういう意味なのかと問おうと思ったが、自分で考えなければいけないような気がした。
 恐る恐る手を伸ばす。伸びた自分の腕が視界の端に映った。忌々しいあの痣はもう綺麗さっぱり無くなっている。もう何にも怯える事はないんだ。なのになぜ、私はここにいる?鍵の空いた鳥籠の中で、丁寧に首輪までつけて自分の運命を嘆いているの?そう思った時には私は椅子を登って、本棚の上に立ち、手を窓枠へと掛けていた。促したのは自分の癖に、少し驚いた様子で少年が目を大きく開いていた。
 
「私は自由になりたい。自分で決めた事なんだから、きっと、後悔しない」
 
 腕にぐっと力を入れて自分の体を持ち上げる。だけど、こんな狭い部屋にずっといたせいで腕に力が入らない。プルプルと震える腕に鞭打つが、だんだん力が抜けていく。
 
「っ、あ!」
 
 ずるりと手に滲んだ汗により滑って部屋の中へと落っこちそうになる。落ちる!そう思い目をぎゅっと瞑ったのに、なぜか私の体は宙に浮いていた。両手を誰かが掴んでいる。それは複雑そうな表情を浮かべた少年で、少年はどこにそんな力があるのか私を引き上げると、自分の隣へと私を下ろした。…なぜか、放り投げるかのように勢いよく。
 
「あいた!」
 
「つまらない」
 
「…」
 
「…と、思っていたけど、存外見込みがありそうだ」
 
 少年は肩を震わせていたかと思うと、ハハハ!と天を仰ぎ笑い出した。本当に、何を考えているのかさっぱり分からない。いや、それよりも久しぶりの外の空気が身に染みる。辺りを見渡すと、緑豊かなスメールの自然や昔はなかった建物などが眼下に広がっていた。少し先にある大きな木を中心に広がる町はスメールシティだ。ああ、久しぶりだ。久しぶりの外の景色。色とりどりの光景が眩しくて、少し目が痛くて鼻の奥がツンとする。すると、突然少年は私の手を取って建物から降りようとした。
 
「ちょ、ここから降りるの!?ここ五階だよ!?」
 
「僕が降りれもしないのに登ると思う?」
 
「……確かに」
 
「…仕方ない。これは僕からのお祝いって事で。ありがたく受け取りなよ」
 
 なにを?と首を傾げたと同時に、少年が近付いてきたかと思うと私の体をふわりと抱き上げた。うんと近くにある少年の顔に驚いて体が跳ねる。少年は「暴れるな」と言いじろりと私を睨み付けた。夜空が広がっているかのような青い瞳。家の中からじゃ分からなかった。彼はこんなにも綺麗な瞳をしていたんだ。
 
「あんまりジロジロ見ないでくれる?落とすよ?」
 
「え?……ひっ!、と、飛んでる!?」
 
 彼の瞳をまじまじと見ている間に気が付けば私は少年に抱えられたまま空をふよふよと飛んでいた。一体これはどういう事!?と慌てていると、彼の胸元についている神の目の存在にやっと気が付いた。そうか、これの能力なのか。そんな私を見て彼はふっと声を上げて笑った。
 
「間抜け面」
 
 夜空を浮かべた瞳が弧を描く。あの時、歌を歌っていて良かった。招いたものは話し相手の鳥なんかじゃなくて、私に取っての救世主だったのかもしれない。後でそう伝えてみよう。けれどきっと彼の事なら「そんな格好悪い称号いらないよ」と言って、そっぽを向くのだろう。
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