狼藉してノクターン

「もう別れる」
 
 何かがブチっと切れた音と共に口から転がり出た言葉は、ポーカーフェイスの彼を驚かせるには十分だったようだ。
 鮮やかな色彩を放つ瞳を大きく開いたアルハイゼンは、立ち上がりその場から去ろうとする私に手を伸ばしたが、寸でのところで私はその腕を交わしてカフェを出た。
 
 事の発端は些細な口論で、私が考えた研究案をアルハイゼンがはなから否定したからだ。けれどこんなのはいつもの事で、知識を盾に彼とディベートしたところで煙に巻かれてしまうのなんて目に見えていた。しかし、長年専門としている分野の研究について他分野であるアルハイゼンに意見されるのは研究者としてのプライドがあり、後に引けなくなって、口論に負け、そして今に至る。
 別れる、だなんて言ってしまったけど、それとこれとは別、というものだ。アルハイゼンの事は無論好きだし、あんな風にプライドを傷つけられたからといって彼を嫌いになんてなりはしない。まぁ、もう少し配慮のある発言をしてほしいなと思う時はあるけれど…でもそれも彼の持ち味であり、他人に気を使うアルハイゼンなんてアルハイゼンじゃないのだ。頭では分かっていても、私にだって譲れないものがある。
 
「……数日後に謝るか」
 
 珍しく驚いた顔をしていたアルハイゼンを思い浮かべながら、どこからか吹いてきた花の香りを吸い込み伸びをした。
 
 ◇
 
 アルハイゼンとどんな風に顔を合わせようかと考え出した矢先、砂漠のとある植物を採りに行ってくれないかと研究仲間に頼まれた。彼女は研究が佳境で、手が離せないらしく、同じ研究者としてその気持ちは痛い程分かるというもの。安易ではないと理解してはいるが砂漠に向かう事を承諾した。砂漠で、と言ってもその植物は何も砂漠の中心でしか採れないというわけではない。アアル村の手前あたりで採集する事ができるだろう。鞄に荷物を詰めながら、頭の中で計画を立てていく。
 あれから二日が経った。家にまで顔を見に来るかもと淡い期待を抱いていたが、待ち人が来る事はなかった。あんな風に勢い任せに別れるだなんて言って、もしかしてアルハイゼンは怒っているのだろうか。それとも呆れて愛想を尽かしてしまった?そう考え出すと、焦燥感に指先がひんやりと冷えていく。悠長にもしかしたら会いに来てくれるかもだなんて思っていないでさっさと彼の元へ行って、ごめんねと謝れば良かった。今すぐアルハイゼンの自宅まで駆け付けたいところだが、研究仲間から頼まれた用事は急を要する。これが終わったら、必ずアルハイゼンの元へ向かおう。荷物を詰め込みすぎた鞄を持って、私は家を出た。
 
 ◇
 
「さ、寒い…」
 
 砂漠の夜を、完全に侮っていた。アアル村の近くにあるだろうと踏んでいた植物はそこには無く、もっと砂漠の中心に行かなくてはないだろうとアアル村のガーディアンの女性から教えてもらい、もう日が暮れるから泊まっていっては?と提案してくれた彼女に丁重に断りを入れて夜の砂漠へと足を踏み入れたのだが、昼はあんなにも暑い砂漠の地が、夜になるとこんなにも冷えるだなんて思ってもいなかった。
 風が強くて、自分の髪の毛が頬を叩く。風が吹くたびに舞う砂が目に入らないように薄目で前に進んで行くしかない。こんな事ならガーディアンの彼女の忠告を聞いておくんだった…後悔したところで戻るにも結構な距離がある。ここまできたらさっさと植物を採って帰ろう。そして、アルハイゼンにも謝って、別れるなんてただ勢いで言ってしまっただけなのと伝えなければ。
 びゅう、と一際強い風が吹いたと思ったら、周りを何かに囲まれたような気配がした。慌てて顔を上げて目を開くと、私の周りをサソリが五体程取り囲んでいた。まずい、逃げなければ!と、来た道を引き返そうとしたが、砂に足を取られて私はその場に尻餅をついた。立ちあがろうとしたが、気が付けば一匹のサソリが私へと勢いよく向かってくる。
 
「い、いや!」
 
 咄嗟に腕を盾にして目を瞑る。襲われる!と覚悟したというのに、いつまで経っても体には何の異常もない。恐る恐る目を開けると、そこにはサソリの姿など一匹もなく、代わりに居たのは月を背負った見慣れた彼の姿だった。
 
「アルハイゼン!?」
 
「……無鉄砲という言葉は君の為に存在している言葉なのかもしれないな」
 
 どうしてここに!?と言う前に剣を仕舞ったアルハイゼンが膝を折って私の肩に触れる。その直後、体がふわりと宙に浮いて、アルハイゼンの整った顔が目前へと現れる。驚いて体を動かそうとしたが、どうやら私はアルハイゼンに抱き上げられたようで、所謂お姫様抱っこのような体勢に顔から火が出そうになる。
 
「お、下ろして!」
 
「怪我をしているんだろう。無理をしない方がいい」
 
「してないよ!驚いて転んで動けなくなってただけ!は、恥ずかしいから下ろして!」
 
「恥ずかしい?ここには君と俺以外誰も居ないだろう」
 
 そういう事ではない!と説明しようとしたが、一際強い風が私達の間を駆け抜けて、その寒さに思わずへっくしょんとくしゃみをすると、アルハイゼンは薄着の私の体をじろりと見て、呆れたように溜め息を吐いた。
 アルハイゼンは近くにあった建物の跡地へと向かうと、その壁際に私を下ろした。そして背負っていた鞄の中から女性物のコートを取り出して、それを私へと差し出した。
 
「…これって、私のコート?」
 
「君の家から持ってきた」
 
 なぜ勝手に私の家に?という疑問はさておき、なぜ私がこのコートが必要である状況に置かれていると分かったのだろう。砂漠に向かう事はアルハイゼンには伝えていない筈。コートを着ながら思考を巡らせていると、私の足に怪我がないか確かめていたアルハイゼンが顔を上げて、私の顔を見ると深い深い溜め息を吐いた。
 
「砂漠の夜は冷える。スメールに住む者なら心得ておく事だ」
 
「うう…ごめん…でも、なんで私が砂漠に来てるって知ってたの?」
 
 アルハイゼンは私の隣に腰を下ろすと、私がまだ寒がっていると思ったのか、私の肩を抱いて自分の方へと引き寄せてくれた。その行動に色んな事があり冷え切っていた心もじんわりあたたかくなる。
 
「君の家へこの前の事を撤回してもらおうと訪ねたら留守だったから家の中へ入らせてもらった。いつも君が遠出をする時に使っている鞄や生活用品が無くなっていたから何処かへ出掛けたのだろうと思い、君が懇意にしている研究者へ君の事を知らないかと尋ねると、植物を採りに砂漠へ向かうように頼んだと聞いた。暑さに弱い君の事だ。砂漠の最奥で採れるような植物の採集を依頼されたら断るだろう。だから砂漠の入り口にあるアアル村で君の事を調べていたらキャンディスから日が暮れるというのに砂漠の奥へと向かっていったと聞き、追いかけてきた…という事だ」
 
 私が相槌を打つ間も無くそう言い終えると、アルハイゼンは鋭い瞳を私へと向けた。怒られる、と身を竦めたが、アルハイゼンは眉間に皺を寄せ、眉を下げると、小さな声でぽつりと呟いた。
 
「……あまり俺を困らせないでくれ」
 
 私の肩を抱く手に力が入る。少し苦しそうで、悲しそうな顔を一瞬だけ見せたアルハイゼンは、まるで誤魔化すかのように視線を私から空に浮かぶ月へと逸らした。
 困らせないでくれ。と、まるで迷惑をかけるなといった具合の物言いだが、「心配したぞ」と彼なりに私に伝えてくれている。それが分からない程アルハイゼンの事を理解できていないわけではない。
 
「…ごめんね。心配かけたね」
 
 月を見つめていたアルハイゼンの瞳が動いて、ジッと私を見つめる。彼の姿はただでさえ美しいというのに、月明かりに照らされたその姿はまるでこの世の者ではないような強烈な美しさを放っている。
 アルハイゼンは言葉を発する事なく、静かに一度瞬きをした。アルハイゼンの肩に頭を預けて少し体重を掛けると、肩を抱いていた彼の手が私の頭をそっと撫でた。
 
「……それで、取り消してくれないか」
 
「ん?何が?」
 
「別れるという話だ」
 
 色んな事があり、そしてアルハイゼンがこんなところまで駆けつけてきてくれた事が嬉しくてすっかり忘れていた。も、勿論!という意味を込めてぶんぶんと取れそうなくらいの勢いで頭を縦に振ると、アルハイゼンが可笑しいものを見たかのように口角を上げた。
 
「あの時は、その…ムキになってというか、感情的になってしまってあんな事を…」
 
 今思うと研究の事で始まった口論を別れるだなんて言葉で締め括り、その場から逃げるなんてしている事がまるで拗ねた子供のようではないか。恥ずかしさから一気に体が熱くなる。情けなくて、上手く出てこない言葉を舌先で転がしていると、アルハイゼンがふっと笑った。
 
「俺も言い過ぎた自覚がある。君の研究分野について少々出しゃばった事を言ってしまった。しかし…」
 
「……しかし?」
 
「大方の事は予想がつくが、まさか君の口から別れるという言葉が出てくるとは予想外だった。すぐに会いに行こうと思ったが、無闇に君を怒らせて火に油を注いでしまったらと数日様子を見ていたんだが、こんな事なら早く君に会いに行くべきだった」
 
 風に吹かれて転がる枯れ木を二人して目で追う。確かに、探偵さながらの推理をするアルハイゼンの事を掻き乱して、こんなところまで連れて来てしまう女はなかなか居ないだろう。申し訳なさと、彼の特別である証かのような優越感が同時に押し寄せてくる。
 
「…笑うところがあったか?」
 
 いつの間にかこちらを見ていたアルハイゼンの視線に慌てて俯く。だって、アルハイゼンが興味のあるものにしか執着しないのを私は知っている。ましてや人にそれを発揮するのは稀な事だろう。青い空に大きな翼を広げて自由に飛び回る彼が羽を休める止まり木のような存在に、私はなれているんじゃないかと都合の良い事を思い描いてしまう。申し訳なさと優越感はどうやら優越感の方が押し勝ったようで、思わず頬が緩んでしまう。そんな私を見てアルハイゼンは怪訝な顔をしていたが、気を取り直したかのように静かに息を吸った。
 
「……もし、君の言葉が本当だったとしても、俺は君を手放すつもりはなかった」
 
「…え?」
 
「知っていると思うが、俺は存外執念深い」
 
 目を丸くしてアルハイゼンを見ると、思ったよりもうんと近くに彼の顔があり、反射的に顔を背けようとしたが、彼の手が私の頭に添えられているものだから、私は逃げる事が出来ず、長い睫毛の向こうにあるコバルトグリーンの瞳に捉えられる。徐々に近付いてくる彼の顔に思わずぎゅっと目を瞑り、降りかかってくる口付けにと身構えるが、それはなかなか触れてこない。そーっと瞳を開けると、アルハイゼンは至近距離で私の顔をじっと見ていた。
 
「…あれ?」
 
「君を抱き上げた時、恥ずかしいと言っていただろう」
 
 だからキスはもっと恥ずかしがると思ったのだろうか。確かに、誰もいないとはいえこんなところでキスをするのは恥ずかしい。だけど、あの流れはどう考えてもキスをする流れだったと思うんだけど…どんなに難しい事でも理解できるアルハイゼンだが、いつまで経っても女心は理解できない、いや、する必要がないと思っているらしい。少し残念な気持ちを抱きつつ、目を瞑って完全にキス待ちの顔を彼に見せてしまった恥ずかしさから熱くなった顔を背けると、アルハイゼンが笑ったような気がした。
 
「ここ数日、君に翻弄されたんだ。これくらいの意地悪はさせてもらうよ」
 
 キッとアルハイゼンを睨むと、彼の目は珍しく弧を描いていた。
 砂漠の夜は冷える。なのにもう、不思議と寒さを感じる事はなかった。
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