カルペ・ディエム


 これ、良かったら。と、スメールローズで作った花束を貰った。花を貰って喜ばない女はいないだろう。けれどそれが家族や友人、恋人などの親しい人ではない場合、どういう意図なのかと考えてしまい複雑だ。
 無下にする事ができず、できるだけ控えめな笑みを貼り付けてそれを受け取ると、男の表情がぱあっと明るくなる。それじゃあ!と小走りで去って行った男は物陰から見ていたであろう友人達に体を叩かれ嬉しそうにしている。あれは、学生だろうか。確か知恵の殿堂などでよく姿を見かけ、やたら挨拶をしにくるなとは思っていたけれど…
 両手いっぱいの花束を抱えながら途方に暮れる。教令院内で研究を行う私は彼からしたら先生や教授のような立場で、年も離れている。からかわれているのだろうか。
 
「…どうしよう、これ」
 
 脳裏にチラつく緋色の瞳を思い浮かべながら溜め息を吐いた。ふわりと香ったスメールローズの匂いはヤケにキツく感じた。
 
 ◇
 
「何の匂いだ」
 
 私の自宅に足を踏み入れた瞬間にセノの顔が歪む。鼻を鳴らしながらセノがずんずんと家の中へと入って行く。その後をドキドキしながら着いて行くと、セノはバスルームの扉を勢い良く開けた。バスタブの上にはスメールローズがこれでもかというくらい浮いている。無論、これをやったのは私だ。スメールローズを沢山仕入れたのでバスタブに浮かせてみたんだという、名も知らない彼から貰ったスメールローズを無駄にはせず、かつ誤魔化す事ができお洒落なバスタイムも楽しむ事ができる一石三、四鳥の作戦だ。バスタブを見て何故か静止していたセノがくるりと踵を返して今度はリビングへと向かって行く。「何だこれは」とでも言われるかと思っていたのにあれ?と思いながら後を追うと、セノはリビングを見渡し、もう一度鼻を鳴らして、そしてゴミ箱の中に手を突っ込んだ。
 
「ちょっ!」
 
「…誰から貰った」
 
 セノがゴミ箱の中から引き上げたのはスメールローズの花束を包装していたリボンで、まさかゴミ箱の中を見るだなんて思っていなかったし、私の作戦は完璧であると高を括っていたものだから言い訳の言葉がなかなか出てこない。というかバスタブに浮かんだ無数の花とゴミ箱の中にあるリボンだけでどうして私が花束を貰ったと推測できるのだろう…と思ったが、彼が敏腕で誰からも恐れられる大マハマトラである事を思い出した。私の咄嗟に思い付いた陳腐な作戦なんてセノからしたら子供騙しのパズルを解くくらい簡単な事だろう。
 
「誰から貰った」
 
 さっきよりもセノが声を張る。恐る恐るセノの顔を見ると、セノは鋭い目で私を見ていた。いや、私を見ているのにセノは私越しにまるで花を贈った彼の顔を思い浮かべて睨み付けているかのようだ。
 
「…教令院の学生、かな」
 
「スパンタマッド学院の黒い髪の奴か」
 
 知っていたのかと目を丸くすると、セノが苛立たしい様子で溜め息を吐いた。確かに黒い髪をしていたような気がするが、どこ派の学生かなんてまったく注目していなかった。
 
「知り合いなの?」
 
「違う。お前に気があるようだったから調べただけだ」
 
 気がある事なんて花束を貰うまで私でさえ気が付かなかったというのに、セノの観察眼はどうなっているんだろう。いや、それよりも自分の恋人に気があるからといって調べるのは少しやり過ぎな気がする。どうセノに伝えようかと口籠もっていると、セノは手に持っていた花を束ねていたリボンを忌々しそうに握り締めた。
 
「俺の方からお前にもう余計な事をするなと伝えてくる」
 
「え、ちょっと!それは流石に…」
 
「何か不都合でもあるのか」
 
 セノの眉間に皺が寄り、夕焼けを彷彿とさせる綺麗な瞳に影が掛かる。鋭く細められた目には私が映っていて、恋人といえどセノの怒った顔は息を呑んでしまう程の圧力を感じる。
 
「不都合とかではないけど…私だって子供じゃないんだし、自分で何とかできるよ。それに、好きだとか何だとか言われたわけじゃないし…」
 
「好きでもない相手、ましてや数回言葉を交わした程度の異性に何の感情も持ち合わせず花なんて贈るわけないだろう。何かあってからでは遅いんだぞ」
 
 腕を組んだセノが目を伏せて淡々と言葉を並べていく。そんな事言ったって、彼に思いを告げられたわけでもないのにセノが釘を刺しに行くのはいくらなんでもやり過ぎだ。決定事項だとでも言うかのようにセノは私の目を見ようとはしない。
 
「ねぇ、セノ…大丈夫だから…」
 
「もう一度言う。何かあってからでは遅い」
 
 セノの決意は固いようで、こういう時のセノは絶対に首を縦には振らない。
 何かあってからでは遅いというセノの言っている事も理解できる。けれど、私だっていい大人だ。ここまでされるとセノから信頼されていないようで悲しくなってくる。
 腕を組み壁にもたれ掛かるセノの横を通り過ぎて自室へと向かう。何か言われるかと思ったけれど、セノは何も言わなかった。自室に入り扉の前で立ち止まっていると、セノの足音がして、何処かへと出掛けて行ったようだった。もしかして早速釘を刺しに行ったのだろうかと内心ヒヤリとしたが、今夜はマハマトラの仕事が入っていると言っていたからそれに出掛けたのだろう。
 
「…いってらっしゃいって言えなかったな…」
 
 ずるずると扉の前にしゃがみ込むと、なぜだか涙が滲んできた。怒りと悲しみで満ちたような、ざわざわとした嫌な感情が心を支配していた。
 
 ◇
 
「で、ここに来たってわけだ」
 
「…うん」
 
 溜め息と共にティナリの大きな耳が揺れる。見習いレンジャーの彼女が淹れてくれたハーブティーを一口飲むと、荒れていた波が凪いでいくかのような穏やかな気持ちへと変わっていく。
 翌日、目が覚めてからもずっと心が晴れずもやもやした気持ちを抱いていた私は思い立ってガンダルヴァー村へと足を運んでいた。ここのレンジャー長であるティナリは教令院時代の同級生で、私とセノの関係も理解してくれている。久しぶりに会ったというのにこんな話を聞いてもらって申し訳ないが、ティナリに聞いてもらえて少しだけすっきりしたような気がする。ティナリは頬杖を付いてトントンと自分の頬を指で数回叩くと、ふふ、と笑みを漏らした。
 
「セノは君の事になると、てんでダメだね」
 
「…そんなに私頼りないのかな」
 
「頼りないとかじゃなくて心配なんじゃない?」
 
 面識のない男から花束を受け取っちゃうくらいだもん、と言うとティナリはうんと伸びをした。その言葉がぐさりと刺さる。ティナリは穏やかそうな見た目の割に結構毒舌なところがある。
 
「でも、私だって大人なんだし、もし何か言われたとしてもキチンと断る事くらいできるよ?」
 
「まぁ、そうだね。でもセノからしたら大切な彼女にちょっかいを掛けられて何もせずに居る事なんてできないんだよ」
 
 ティナリの言葉にハッとする。確かに、例えば私がセノにアプローチをする女の子の存在を知ったとして、黙ってそれを見ている事ができるだろうか。できたとしても、今すぐ断りを入れてきてくれないと不安になるかもしれない。こうして考えてみると、自分の事ばかり考えていて、セノの立場になり物事を考えられていなかったかもしれない。黙り込む私にティナリがしょうがないなぁとでも言うかのように息を吐いて、私の背中をまあまあ強い力で叩いた。
 
「いたっ」
 
「それくらいセノに愛されてるって事だよ」
 
「そうかなぁ…」
 
「当たり前だろう」

 突如背後から聞こえた低い声に私とティナリの体が跳ねる。恐る恐る振り向くと、そこには仏頂面のセノが立っていた。
 
「セノ!?どうしてここに!?」
 
 まさか、ティナリが呼んだのだろうかとチラリと横目でティナリを見ると、ティナリも目を丸くしてセノを見ていた。この反応からしてティナリもセノが来る事は予想外だったのだろう。だったらセノは何故ここに?ゆっくり視線をセノへと戻すと、私の事を見ていたセノとバッチリ目が合った。
 
「……お前は昔から何かあるとティナリに泣きつくだろう」
 
 どうやら見透かされていたみたいだ。何だかセノの元から逃げてきたかのような状況に居た堪れなくなり俯くと、目の前にゴツゴツした見覚えのある手が差し出される。
 
「…帰ろう」
 
 顔を上げると、少しだけ眉を下げたセノが私に手を差し出していた。あまり見たことのない、不安そうなセノの表情に釘付けになっていると、ティナリが私の背にトンと触れた。ハッとしてセノの手を取ると、セノが私の手をぐいぐいと引っ張る。
 
「次来る時は、二人とも笑顔で来てよね」
 
 呆れたように笑うティナリの言葉に、私がぶんぶんと首を縦に振ると、セノも「ああ」と短く返事をした。
 
 ◇
 
 ガンダルヴァー村を出て、私の自宅があるスメールシティまでの道を歩く。山のてっぺんに向けて沈みかけている太陽に、もうこんな時間なのかとぼんやりしていると、私の手を握るセノの手に力が入った。
 
「……この道はキノコンやリシュボラン虎がよく現れる。道中、出くわしたりしなかったか?」
 
「何とか大丈夫だったよ」
 
 そう返事をしてからある事に気付く。そういえばセノは『ガンダルヴァー村に行く時はキノコンやリシュボラン虎の巣があるから気をつけるように。向かう時はティナリに迎えに来てもらうか俺に声を掛けろ』と何度も私に告げていた。何とか大丈夫、だなんて曖昧な返事をしてしまった事を後悔するが既に口から出てしまった言葉を取り消す事はできない。うう、また怒られる…と身を縮めるが、セノは怒るどころか歩みを止めず、こちらを見る事さえしなかった。
 
「…お前に怪我が無くて良かった」
 
 ぽつりと呟かれたその言葉は、風に吹かれて消えてしまいそうな程小さく聞き取り辛かった。
 セノの様子がおかしいのなんて明白で、いつもなら何かあったの?と気軽に声をかける事ができるのに、あの出来事のせいで私達の間には妙な空気が流れていて、なかなかいつも通りに振る舞う事ができない。そもそもあの喧嘩とさえ呼べないような小競り合いに決着はついていない。家に着いたらセノに謝ろう。でも、何て切り出したら良いんだろう…と考えを巡らせていると、セノがぴたりと立ち止まる。キノコンやリシュボラン虎が本当に現れたのかと慌てて顔を上げると、目の前には自宅があって、色んな事を考えている間に気が付けば辿り着いていたらしい。
 ポケットから鍵を出して扉を開け、セノに先に入るように促すが、セノは扉の前で立ち止まったまま入ろうとしない。これから仕事があるのだろうか?玄関先で挨拶だけして帰るつもりなのだろうかと、少ししゅんとした気持ちになりつつも、先に家の中に入ると、私の後を追ってセノが家の中に入った。何だ、上がっていくのかと胸を撫で下ろすと、扉が閉まった音がしたと同時に体があたたかいもので包み込まれる。
 
「セ、セノ!?」
 
 その正体はセノで、セノは私の体を後ろからぎゅっと抱き締めている。セノがこんな事をするのは珍しい。ましてや玄関でなんて、と驚いて振り向こうとしたのに、顔を見られるのを拒むかのようにセノが私の肩へと顔を埋めている。狼狽える私の声が家の中に反響し、そして水を打ったかのような沈黙が訪れる。お腹の辺りに回されたセノの腕にそっと触れると、私が腕を引き剥がそうとしたと勘違いしたのかセノの腕に力が込められる。
 
「…どうしたの?」
 
 できるだけ柔らかい声でそう言いながら腕を伸ばしてセノの頭を撫でると、セノが顔を上げたような気配がした。
 
「……悪かった」
 
 セノにしては珍しい、弱々しい声だった。少し身を捩ってセノの方を見ると、ガンダルヴァー村で見た時よりもうんと不安そうな顔をしていた。セノのこんな顔を見るのは初めてだ。彼が悪かったと言ったのはきっと昨日の小競り合いの事だろう。まったく、過保護すぎるよ。もっと私のことを信頼してよ。と言ってやろうと思っていたのに、こんな顔をするセノを見たらそんなつまらない意地のようなものなんてどうでも良くなってしまった。
 
「私こそごめんなさい。よく知らない人から花を受け取るなんて迂闊だったね」
 
 後ろにあるセノの体にもたれ掛かり、彼の顔を見上げると、不安気に揺れていたセノの瞳が徐々に安堵していくのが分かった。
 
「…私だって、セノが女の子からお花貰ってたら嫌だもん」
 
 ティナリと話していた時の事を思い出しながらそう言うと、セノの目が見開かれる。その顔を見てまたしても、しまったと後悔した。セノは「お前が男から花を貰って嫌だ」なんて事は一度も言っていない。これは私の勝手な憶測なんだった…幼稚な事を言ってしまったと顔に熱が集まる。しかし、セノは何故か気まずそうに瞳を逸らした。
 
「……殺してやろうかと思うくらい腹が立った」
 
「…ころ?…え?」
 
 突如聞こえた物騒な言葉に聞き間違いかと目を瞬かせるが、どうやら聞き間違いではないらしい。憶測が当たっていたどころか、セノは私が思っている以上の感情を抱えていたようだ。
 
「つまらない、醜い嫉妬だ」
 
 そう言い捨て溜め息を吐くと、セノは私を拘束していた腕を解いた。お互い謝って、そして腹を割って話しだしたところだと言うのに、セノの顔は未だ暗い。セノに向き合って、彼の頬に手を添えると、セノは上目遣いで私を見た。
 
「……俺は格好悪いな」
 
 弱々しい語気と、らしくない言葉。まるで雨に打たれて肩を落としている野良猫みたいなセノに、堪らずその体を正面からぎゅっと抱き締めると、突然抱き着いた私にバランスを崩したセノが後ろにあった扉にぶつかりそうになる。
 セノが私の事を思ってくれて、考えてくれて、嫉妬して、心配してくれて生まれた感情ならば、それがどんなに醜く、どんな色をしていようが愛おしい。全て包み込んで、受け入れるに決まっている。
 
「…とっても格好良いよ」
 
 セノの背中に腕を回して、その体にぴったりくっつくと、セノの手が遠慮がちに私の背中へと回る。そっと、まるで壊れ物に触れるようなセノの手がもどかしくて、軽くその場で跳んでもう一度セノの体を抱き締め直すと、セノがふっと笑って、私の背中をぎゅっと抱き締めた。
 
「お風呂に入って、美味しいものを食べて、朝までぐっすり寝よう」
 
「……うん」
 
 小さく頷くと、セノはまるで甘えるみたいに私の頬に自分の頬を寄せた。それに応えるように、セノの頬に自分の頬をすりすりと擦り付けると、セノが擽ったそうに身を捩る。
 同じ空間で昨日は最悪の空気だったのに、今じゃ甘い空気が漂っていて、幸せを感じる。いつまでも玄関で抱き合ってるわけにはいかないと、セノの手を引いてリビングまで連れて行こうとすると、セノがバスルームをすっと指差した。
 
「風呂に入る」
 
「そうなの?どうぞ?」
 
「…お前と一緒に入りたい」
 
 らしくなさすぎるとんでも発言に露骨に動揺すると、セノが面白いものを見たかのように口角を少しだけ上げた。そりゃあ付き合っているんだし、色んな事はしてきたけど、一緒にお風呂に入った事なんてないし、色々口下手なセノから直接甘えるような事を言われた事がないからどう返事をしていいのか分からない。
 
「風呂に入って美味いものを食べて寝るんだろう?」
 
「確かにそう言ったけど…」
 
「なら全部お前としたい」
 
 柔らかく目を細めると、セノが私の腰を抱いてバスルームの扉に手を掛けた。こんなにも押せ押せなセノは初めてかもしれない。セノの腕にそっと触れると、セノは私の前髪を掻き分けて、額にそっと口付けを落とした。セノの唇が触れたところからじわじわと熱が回っていくようなそんな感覚にめまいがしそう。カチャリと、音がしたかと思えばセノがバスルームの扉を開いた。本当に一緒にお風呂に!?と期待と羞恥心でいっぱいいっぱいになっていると、セノの動きがぴたりと止まった。
 
「……忘れていたな」
 
「え?………あ」
 
 セノの視線を辿ると、そこにはバスタブの上にぷかぷかと浮かぶ草臥れたスメールローズがあって、そういえばくだらない言い訳を考えてバスタブに浮かべ、そしてセノと口論になってから放置したままだという事を忘れていた。
 
「まずは掃除からだね」
 
 そう言って、私達は顔を見合わせて笑った。
 
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