朝明の折、まだ鳴くな

『烏は番を亡くすと、新しい相手を作る事はせず、一生独りでいるんだって』
 
 茜色に染まり始めた空を、二羽の黒い烏がまるで寄り添うかのように飛んでいる。こんなにも広い空を窮屈そうに飛ぶ二羽は、つまりそういう事なのだろう。いつか、ナマエが言っていた言葉を思い出す。
 
「カア」
 
 耳元から聞こえたふざけた鳴き真似に顔を顰めると、声の主は「怒らないでよ!」と言い戯けた。気配だけは感じ取っていたが、辺りが暗くなるにつれて、その輪郭が徐々に現れる。はっきり視認できるようになったかと思えば空には月が浮かんでいて、相変わらず締まりのない顔を月明かりが照らしている。しかし、その両足は薄らと透けていて、目の前に立つナマエがこの世のものではないという事を知らしめているかのようだ。
 先日、ナマエは死んだ。仙人といえど死は訪れる。何も驚く事ではない。けれど、同胞の死には幾許の時を生きようと慣れる事は無く、訃報を聞いたその日は一日、ナマエの事が頭から離れなかったものだ。
 ナマエはユスラウメの咲く山頂を拠点としていた。翌日、そこへ赴き柄にも無く花を供えに行くと、身体が半透明になったナマエがちょこんと座っていたのだ。「成仏できないみたい」と、ユスラウメを口に含みながらさも当然の如くそう言い放つと、ナマエは「協力してよ」と言い、我の後を追ってきた。
 成仏できない霊など幾らでも見た事がある。悪霊へと成り代わった者を除霊という名目で始末した事もある。しかし、同胞の霊が成仏するのを手助けした経験などない。
 ナマエはあの日から我の周りをふよふよと漂い、成仏できる方法を探している。ナマエには仙人になる前の記憶がないらしく、人型を保ってはいるが、本来の自分の姿を思い出す事もできず、ましてやその姿に戻る事もできないらしい。それは生前から聞いていた話で、恐らくそれが成仏できない理由のひとつであるとナマエは言っていた。つまり、記憶を取り戻し、成仏する手助けをしろという事だ。
 遠くまで飛んでいき、ただの黒点へとなった二羽の烏をぼうっと眺めていると、ナマエがもう一度「カア」と烏の鳴き真似をした。
 
「……くどい」
 
「魈が難しい顔してるから和ませてあげようと思って」
 
 誰のせいで難しい顔をしていると思っているのか。長年の付き合いに免じて、どうにかしてやろうと四苦八苦している我に反して、当の本人は特に焦った様子も無く、生前と変わらず呑気なままだ。
 
「その姿で長く居ると悪霊になるぞ。分かっているのか」
 
「その時は魈が退治してくれるでしょ?」
 
 へらへらと笑うナマエを睨みつけると、ナマエは怖い怖いと言いながらくるくると宙を舞った。
 能天気で、感情が豊かで、同じ仙人とは思えない、まるで人の子のような奴なのだ。はぁ、と溜め息を吐くと、ナマエが我の顔を覗き込む。どうしたの?と言われる前に「降魔退治だ」とだけ告げるとナマエの顔が歪んでいく。ナマエは仙人だが、我のように戦場に身を置いている仙人ではない。己が住む山を筆頭に、璃月の花々や木々を守るよう帝君と契約を結んでいたらしい。
 
「…お手伝い、できなくてごめんね」
 
 そんなもの、端から望んでなどいない。降魔退治は我の責務であって、ナマエの手を借りる必要などない。さっきまでの威勢はどうしたと言いたくなる程、ナマエは俯き唇をぎゅっと結んでいる。
 
「その必要はない。お前は何か手掛かりでも探しておくんだな」
 
 そう言うと、ナマエはパッと顔を上げて「ありがとう」と笑った。コロコロと表情が変わるやつだ。手を振るナマエを横目に我は姿を消した。
 
 
 一、
 
 
 ユスラウメの咲く山の麓は、まだ寒くもなっていないというのに緑色を失い、枯れ果てた色へと姿を変えている。主を失った山の末路かと、山頂からそれらを見下ろしていると、あたたかさに包まれていた身体が通常の体温へと戻った。それは何かというと、降魔退治で傷付いた我の体をナマエが必死に仙力で癒していたもので、ナマエは我の隣にパタリと倒れると、仰向けになって「疲れた」と掠れた声で言った。
 手伝う事ができなくてごめんと言ったあの日、降魔退治から帰ると、そういえば自分には万物を癒す能力があったのだとまるで目から鱗といった様子で告げられた。確かに、ナマエの力は我の傷を癒した。しかし、魔神の残滓に蝕まれた我の体は一朝一夕に癒えるものではない。だが、効果がないというわけでもない。ナマエはもう死んでいる。生きていたならば力をもっと使う事ができたであろう。今のナマエは消えかけた蝋燭のような存在だ。少しでも力を使うととても疲れるらしく、ふうふうと今も横で息を荒げている。
 
 仰向けになり目を瞑るナマエの周りを蝶が飛んでいる。その蝶は半透明のナマエの鼻先へと止まると、羽を畳んでじっと動かなくなってしまった。その事に気が付いていないのか、ナマエも微動だにしない。いや、もしかしてもう動かなくなってしまったのか?恐る恐る手を伸ばすと、手が届くよりも先にナマエの鼻先に止まっていた蝶が慌てた様子で羽を広げて飛んでいった。すると、ナマエはゆっくり瞳を開けて、ちらりとこちらを見た。
 
「…あーあ、行っちゃった」
 
 飛んで行く蝶を名残惜しそうに見つめるナマエに、杞憂だったかと少しホッとする自分がいた。いや、ナマエは消えたがっているのだ。成仏する為に我の側にいるのだ。目的を見誤るな、と自分に言い聞かせる。すると、何かが指先へと触れた。それはナマエの手で、半透明のその手からは何の温もりも、冷たさも感じられない。力を使われていた時はあんなにもあたたかかったのにまるで嘘のようだ。触れてきたその意味が分からず微動だにせずにいると、視界の端に何かが映った。それは先程ナマエの鼻先に止まっていた蝶で、戻ってきたのかと思っているとその蝶は繋がれた我らの手の上に降り立ち、羽を畳んだ。
 
「魈が優しい人だって事に気付いて戻ってきたのかな」
 
 我は優しくなどない。この手だって、血に泥に、汚れ、染まった手だ。我の手を握るナマエの手を振り解こうとしたが、どうにも羽を休める蝶が気になってそれは出来そうになかった。ふふふ、とナマエが笑って、ごろんとこちらへと寝返りを打った。
 
「ほら、優しいじゃない」
 
 その言葉に応えるかのように蝶がパタパタと数度、羽を広げては閉じた。
 
 
 二、
 
 
 枯れていく山々を見るナマエの目は悲痛に塗れていた。それもそうだ。璃月の自然を守ってきたのはナマエで、そしてその使命を誇らしく思っていたのもナマエだ。植物になど然程興味が無い我が見ても、ナマエが死んでからというもの、此処ら一帯は色を失ったかのように枯れ果てている。
 
「…自然は強いから。そのうちまた綺麗な緑色に戻るよ」
 
 まるで自分に言い聞かせるかのようなその言葉は、風に攫われていった。
 何もないところに人が里を作るように、山もまた、風が種を蒔き、虫が蜜を運んで、そうして色を取り戻していくのだろう。しかし、分かってはいてもそれらが衰退し、そしてまた繁栄していくのを見届ける事ができないのは無念であろう。ならば一思いに消えてしまった方がナマエも報われたというのに。伏せていた瞳から溢れたものは、見なかった事にした。
 
 
 三、
 
 
「魈に呪いをかけたの」
 
 ナマエは口の端をつりあげて妖しく笑った。わざとらしいその表情に何を言っているのかと鼻で笑うと、本当なんだからと言って口を尖らせた。
 禍々しい物と日々向き合っているのだ。呪われた事など幾度とある。そしてそれらをどうにかする術など幾らでも持ち合わせている。
 
「呪われた事に気付かない程、我は愚鈍ではない」
 
「いいえ、呪ったもの」
 
 悪霊にでも成り下がったのかと腕を組み直しナマエを眺めるが、そのようには見えず、我と目が合うとナマエはにこりと頬笑み首を傾げた。かと思えば慌てて表情を作り先程と同様に妖しい笑みを浮かべている。何だというのだ。
 例えナマエが我を呪ったとして、述べたように呪われた事に気付かないような愚かさは持ち合わせてはいない。それに、気付く気付かないというより、嫌でも気が付くものだ。しかし、何を言っても呪ったの一点張りが目に見えているので、もう何も言うまいと口を閉ざした。我が観念したと思ったのか、ナマエは得意気に笑い、宙をくるくると何度も回った。死んでからの、ナマエが機嫌が良い時の癖だ。
 
「…どんな呪いをかけたんだ?」
 
 万が一、本当に呪いをかけられたのならばどうにかしないといけない。自分よりも力の弱い仙人であるナマエにそんな事は出来っこないとは思うが、念の為尋ねてみた。すると、ナマエは「秘密!」と言って我の周りを笑いながら漂っている。タチが悪い。まぁ、嫌な感じがしないから大した呪いではないのだろうと、ナマエを信じる事にした。
 
 
 四、
 
 
 カア、と声がしたかと思えば、背後にある生い茂った木から一羽の烏が飛び出した。それと同時にナマエがあっ!と声を上げた。よく見ると烏の嘴にはユスラウメが咥えられている。いつもナマエが愛でているユスラウメの木の一部から実がごっそりと無くなっている。どうやら彼奴の仕業らしい。ナマエはこらー!と言いながら烏の後を追いかけたが、烏の方が飛ぶのが速く、とぼとぼと肩を落として帰ってきた。
 
「いずれ実るだろう」
 
「……ううん、ここもそのうち枯れ果ててしまうわ」
 
 以前、自然は強いからまた戻ると言っていたのが嘘かのようなか細い声に、何となく、ナマエはそろそろ消えるのだろうという事を悟った。半透明だった体は、相変わらずだが、指先が前よりも視認し難くなっている。このまま成仏できない理由を見つける事が出来なかった場合、ナマエは姿を消し、その未練を抱えたまま誰にも認識される事なくこの世を彷徨うだろう。そして、悪霊へと変わっていくのだろう。そうなれば祓わなければいけなくなる。どうにかそれだけは避けてやりたいが、今のところナマエの残した未練への手掛かりは薄い。上空を飛んでいた烏が木に止まったかと思えば、ユスラウメを飲み込んでいる。すると、どこからかひょいともう一羽の烏が姿を現した。
 
「…白い」
 
 ナマエがぽつりと呟いた。確かに、その烏は普通の烏とは違い黒くなく、全身が真っ白だ。長い時を生きてきたが白い烏を見たのは数回だけだ。珍しいなと、黒い烏から分け与えられたユスラウメをつつく白い烏をぼんやり見ていると、ナマエが「魈」と我の名を呼んだ。
 
「…思い出した」
 
「何をだ」
 
「…自分の、本当の姿」
 
 ナマエの手が我の手を握る。その手はやはり、あたたかくも、冷たくもなかった。
 
 私は此処ではない別の山に居着いた白い烏だった。他の烏と違う見た目をしていたから意地悪をされてね、居場所がなかった。寝る場所も無いし、お腹も空いて、もう駄目かもと思ったら帝君に出会ったの。私はその時からどうやら不思議な力を持っていたみたいで、魔神戦争で廃れた璃月の自然をどうか救ってやってくれと頼まれたわ。私を虐める黒い烏達の事は嫌いだったけど、他の動物や虫は私には優しかったから、それらの住む場所を守る事ができるならと契約を結んだ。強い力を手に入れる事ができたけど、その代償として記憶は失っていたみたい。それとも、ただ忘れたかっただけなのかもしれないけれど。
 
 そう話しているナマエの体が淡い光に包まれる。輪郭を縁取るかのように光っていたかと思うと、それらはまるで蛍のよう光を放ちながらナマエの体から離れて、天へと昇っていく。光の離れた箇所の、ナマエの体が欠けている。消えるのか、とぼんやり思っていた事が確信へと変わる。
 
「……まだ、気掛かりな事があるの」

 ナマエがそう言うと、ナマエの体を覆っていた光が小さくなっていく。記憶を取り戻す事が未練ではないのか。他に何があるというのだ。眉間に皺を寄せる我を見ると、ナマエはこちらに向けて指を差した。ナマエは我が難しい顔をしていると、いつも「怖い顔」と言って我の眉間に指を当てていた。いつもの行動かと思っていたが、どうやらそうではないらしい。
 
「……我が、何だ」
 
 気掛かりな事、というのはどうやら我の事らしい。ナマエは少し寂しそうに笑うと、俯き、自分の指先をジッと見た。そういえば、繋いでいた筈の手には何の感触もない。よく見るとナマエの手の先が消えていた。それどころか、今も手首から肘にかけて徐々に消えていっている。
 
「…烏は番を亡くしても、新しい相手を見つけないんだよ」
 
「お前が話していただろう。覚えている」
 
 もう時間がないというのに、のんびりそんな事を話すナマエに被せ気味に返事をすると、自分の話を我が覚えていた事に驚いたのか、ナマエは目を大きく開けてから頬を染め笑った。
 
「魈は降魔退治をしているでしょう?無茶な戦い方だなって心配してたんだよ。だから正直、魈は私よりも先に死んじゃうんじゃないかなって思ってた。そしたら私は魈の事をずっと忘れずに想い続けてようって思ってたの」
 
 まるで我らの様子を見るかのようにジッと此方を見ていた黒い烏と白い烏が羽音を立てて飛び立った。ナマエはそれを見ると、微笑み、手を振った。いや、手を振ったのかは分からなかった。何故ならもう、ナマエの腕は消えていたからだ。
 
「…人間は、こういう感情に名前を付けているんだよ」
 
 ナマエが我の肩に頭を乗せた。またしても眩い光を放ちだしたその体は、眩しくて仕方がない。
 
「それは、何と言うのだ」
 
「…秘密」
 
 この後に及んで…とナマエの顔を覗き込むと、へらへらと笑っているのかと思ったのに、ナマエは泣いていた。瞳から溢れる雫はその頬を滑り落ちる前に光となり、昇っていく。
 
「ねぇ、魈に呪いをかけたって言ったでしょう?」
 
「…ああ」
 
「あれはね、魈が私を忘れない呪い」
 
 もう消えているというのにナマエの両腕が背中へと回されているかのような気がした。そっと、まだ消えていないナマエの背中へと触れると、ナマエの体がびくりと跳ねる。
 忘れない呪い、ナマエらしい、くだらない呪いだ。そんなものの何が呪いだというのか。ふっと鼻で笑ってやると、ナマエが顔を上げて笑わないでよ!とめくじらを立てた。
 
「そんな呪いが我に効くと思うのか」
 
「…弱小仙人の呪いなんて魈には効かない事くらい分かってるよ」
 
 ナマエは口を尖らせると、キッと我を睨んだ。けれどその顔には焦燥が滲んでおり、その意図を汲み取れない程、我は薄情でも無い。そして、本心でもある。
 
「そんなもの無くともお前の事は忘れない」
 
  ポカンとしていたナマエの顔がくしゃくしゃに歪んでいく。両の目からは先程の比ではない量の雫が流れている。それらを掬おうと指を伸ばしたが、光を放ち、指をすり抜けて昇っていってしまった。
 
「…ありがとう。そろそろいくね」
 
 ナマエが背伸びをして我へと視線を合わせる。ナマエの瞳に映る我の顔は、情けなく、歪んでいた。こんな自分の顔を見るのは初めてだった。
 
「魈、あなたの事が、とてもとても大切だったよ」
 
 そう言うと、ナマエの唇が我の唇へと触れた。いや、触れたのかどうかは分からなかった。体温も、感触もなかったのだ。弧を描くナマエの目が光を放ち、そして、消えた。
 
 天へと昇っていく光の欠片を、二羽の烏が追いかけていく。すると、ひらひらと何かが空から降ってきた。それは白い烏の羽だった。これは、今黒い烏と光を追いかけている白い烏の羽なのだろうか、それとも…
 
 舞い落ちてきた白い羽をユスラウメの木の隣へと飾った。ナマエの気に入っていたこの木に水をやろう。またユスラウメが実れば、烏がそれをつつきに来るだろう。けれど、何だかんだ甘いお前の事だ。「しょうがないなぁ」と言って、笑うのだろう。
 
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