琥珀色の指先で

「いらっしゃいませ」

 扉の開く音がしたので振り向くと、そこには往生堂の客卿である鍾離先生が立っていた。
 いつものお席にご案内すると、彼は「ありがとう」と言い腰掛けた。
 鍾離先生はここ新月軒の所謂常連客で、オーナーも鍾離先生が来店すると両手を揉みながらご挨拶に行く程だ。ただの従業員である私には鍾離先生が何となくすごい方なんだろうなぁ、かっこいいなぁ、という事しか分からないので、とりあえずご来店の際にはとびきりの笑顔で迎えるように心がけている。
 席に腰掛けた鍾離先生にメニューをお渡しすると、癖なのかいつものように顎に手を置いて考え込む。メニューを吟味する彼をここぞとばかりにまじまじと見てしまう。すらりと高い背に端正な顔立ち、琥珀色の浮世離れした瞳には薄く紅を差している。容姿端麗という言葉が似合いすぎるお人だな。だなんて考えていたら、メニューが決まったのか顔を上げた鍾離先生とバッチリ目が合ってしまった。誤魔化すかのように慌てて微笑み「お伺いします」と言ったのだが、どういうわけか鍾離先生は私の顔をジッと見たまま黙っている。もしかして、ジロジロ見ていた事が気に触ってしまったのだろうか。笑顔のまま冷や汗をかきながら固まっていると、鍾離先生がゆっくりと口を開いた。

「明月の玉子を」

「へ?」

「明月の玉子を、ひとつ」

 気付けば鍾離先生の視線はメニューへと戻っており、文句の一つでも言われるのかと身構えていたものだから何とも間抜けな声が出た。
 慌ててメニューをメモに書き写し「少々お待ちください」と言い逃げるように厨房へと歩く。見てなくても分かる。鍾離先生の視線が私の背中へとグサグサと突き刺さっている事が。
 その後、何か失礼な事をこれ以上してしまうといけないと思い、同僚に席の担当を代わってもらったのだが、何故だか別の席の接客中でも、鍾離先生の視線が私から外れる事はなかった。



「つ、疲れた」

 営業時間が終わり、同僚は先に帰りオーナーも用事があるという事なので一人で戸締りをする。
 今日は忙しかった。いや、それよりも鍾離先生だ。あの後、何をしててもこちらを見ている気がして、気の所為だと思ってそっと見てみると本当にこちらを見ているのだ。
 やはりジロジロ見ていた事が気に触ってしまったのだろう。別に睨んでいたわけではないし、何なら綺麗な人だなぁと思って見惚れていただけなのに。けれど、こんな事本人に言えるわけもない。もし今度来店された際にまだあの視線を感じるようならオーナーに相談してキチンと謝罪させていただこう。
 長い溜め息を吐きながら店の扉に鍵を掛けていると、背後に人の気配を感じて振り向いた。その姿を見た途端血の気が引いていくのが分かった。

「しょ、鍾離先生!」

 そこには、腕を組み月を眺めている鍾離先生が居た。私の声に気付くと、その視線はゆっくりと私へと注がれる。ま、まさか今日の出来事に腹を立てて、営業終了後に文句の一つでも言ってやろうと私の事を待ち伏せしていたのでは。慌てて鍾離先生の元へと近付き膝に頭がつく勢いで頭を下げる。

「も、申し訳ありません!とんだ失礼を、わ、私…」

「む、何がだ?」

 え?頭を上げると、首を傾げた鍾離先生が不思議そうに私を見ていた。月明かりに照らされた鍾離先生は幻想的で、またしてもうっとりそのお姿に見惚れてしまう。が、違う!何度同じことを繰り返すんだ私は!もう一度頭を下げると、今度は頭が膝にぶつかったが、そんな事を気にしている場合ではない。

「お客様のお顔をジロジロと見て不快な思いをさせてしまい大変申し訳…」

「待ってくれ、頭を上げてくれ。さっきから何を言っているんだ?不快?俺がか?」

 またしても頭を上げると、少し慌てた様子の鍾離先生が首を捻りながら顎に手を当てていた。

「ジロジロ?俺がメニューを選んでいる時にお前が俺の顔を見ていた時の事を言っているのか?」

「お、おっしゃる通りです」

「気にしていない」

 真顔でそう言われ、何も言えなくなる。まるで餌を欲している鯉のように口をパクパクさせていると、鍾離先生は顔色ひとつ変えることなく話を続けた。

「そもそも、お前がメニューを決めている時に俺の顔を見ているのはいつもの事ではないか」

 鍾離先生の言葉に頭が真っ白になるが、意味を理解した途端に全身が一気に熱くなる。え?ジロジロ見ていた事を気にしていなかったのは本当に良かったけれど、いつも鍾離先生のお顔をこっそり見ていた事が本人にバレていたって事?あまりにも恥ずかしくなって、赤い顔を隠すかのように口元を押さえる。何とか「すみません」と蚊の鳴くような声で言うと、鍾離先生は目尻を下げて微笑んだ。

「バレていないと思っていたのか」

「………すみません」

 必死に言葉を絞り出そうにもすみません以外の言葉が出てこない。穴があったら入りたい。まだまだ赤い顔を隠すかのように俯くと、向かいに立っている鍾離先生の足が一歩、二歩と私に近付いてくるのが分かった。少しだけ顔を上げると、思ったよりも近くに鍾離先生の顔がありギョッとした。鍾離先生は私の顔をジッと見ていたかと思うと、何かを決意したかのように小さく頷いた。

「俺と、夫婦にならないか?」

「…………へ?」

 夫婦?意味が分からず頭をフル回転させる。もしかして、プロポーズされてる?往生堂の客卿で容姿端麗の鍾離先生の元にお嫁に行けるのならそれはそれは両親も手を叩いて涙を流しながら喜ぶだろうけど店でメニューをお伺いする以外で彼と言葉を交わしたのは今が初めてだし、そもそも彼のことを何も知らない。キスはおろか手も握っていないのに夫婦になるだなんてそんな、そんな…と色んなことを脳内で駆け巡らせていると、そんな私を察してか鍾離先生がすっと手を挙げた。

「すまない。夫婦と言っても疑似夫婦という意味だ」

「え?」

 早とちりをしてしまった事に顔がまたしても赤くなるが、それよりも疑似夫婦?そんな怪しい言葉が鍾離先生の口から放たれるなんて。鍾離先生はバツが悪そうに視線を泳がせると、深い溜め息を吐いた。

「実は…往生堂の顧問の爺さん達が良い歳なんだから結婚をしろと五月蝿くてな。あれはこれはと見合い写真を見せられるのにうんざりしていたんだが、その時に思わず婚約者がいるとつい言ってしまってな。ならばその者と挨拶に来いと言われてしまい途方に暮れていたんだ」

 一般的に子を成す年齢になるとそういう話は付き物で、凡人の私でさえも鍾離先生側の気持ちは痛い程分かる。鍾離先生が私と疑似夫婦にと持ち掛けたのは恐らくその結婚を約束した相手を私に演じて欲しいという事だろうけれど、一体全体何故新月軒の従業員である凡人の私にそんな事を頼むのだろうか。

「あの…何故私をそのお相手に選んでくださったんでしょう?」

 恐る恐る訪ねてみると、 鍾離先生はさも当然のように衝撃的な言葉を言い放った。

「そうだな、所謂好みのタイプというやつだ」

「…………好みのタイプ、わ、私が!?」

 思わず大きい声を出してしまって慌てて口を押さえると、鍾離先生が声を上げて笑い出す。こんなにも笑ってるところ初めて見た…じゃなくて、私の事をタイプだと言ってくれたのは私の都合の良い聞き間違いか何かだろうか。動揺のあまり目を泳がせていると、そんな私の目を捉えるかのように鍾離先生が私の顔を覗き込んだ。

「その反応は俺の頼みを効いてくれるという事で良さそうだな」

「えっ!あっ、はい!」

「ならば明日、十九時に往生堂の前に来てくれ」

 それでは。と言うと鍾離先生は手を挙げて去っていった。明日十九時に往生堂、好みのタイプ、鍾離先生が言い放った言葉の数々が脳を反芻する。どうやら今日は眠れそうにない。



 案の定寝不足のまま迎えた当日。箪笥からありとあらゆる服を引っ張り出し姿見の前であれでもないこれでもないと選ぶ事数時間。どうにかそれっぽいワンピースを見つけ、できるだけ小洒落たアクセサリーを身に付け、他所行きの靴を履いて準備完了。あとは今にも飛び出しそうな心臓をどうにか落ち着かせる事に専念するだけだ。待ち合わせの時間の数十分前には着いていた方が良いだろうと思い家を出る。往生堂までの道を歩きながら何度も何度も深呼吸をする。あの鍾離先生の婚約者の振りなんて、ただの凡人である私に務まるのだろうか。往生堂の顧問の方々とお食事でもするのだろうか、その場合食事のマナーの悪さに凡人さが滲み出て婚約者ではない事がバレてしまったら…悪い予感ばかりが頭を過ぎる。ああ、どうか上手くいきますように!目をギュッと瞑って天に祈りを捧げる。すると、ははっ、という笑い声が聞こえたかと思うと、誰かが私の肩に手を置いた。

「何をしているんだ?」

「しょ、鍾離先生!」

 振り向くとそこには笑いを堪えたような顔をした鍾離先生がいた。ハッとして辺りを見渡すと、気が付かないうちにどうやら私は往生堂まで辿り着いていたようだった。

「何か天に祈る事でもあるのか?」

「……今日の事が成功しますように、と…」

 目を丸くすると、鍾離先生は呆れたように笑った。

「そんなに緊張しなくても良い。肩の力を抜いてくれ」

 ああ、それと。と言うと鍾離先生は私の耳に顔を近付けた。

「婚約者なのに先生と呼ぶのは可笑しいだろう。俺の事は鍾離と呼び捨てにしてくれ」

「ひ、ひゃい!」

 至近距離で聞こえた潜められた低い声は私には刺激が強すぎて、返事をする声が裏返ってしまった。恥ずかしくて耳まで赤くなっている自信がある。

「鍾離」

「え?」

「言ってみてくれ。練習だ」

 自分のせいで私が林檎のように真っ赤になっている事など露知らず、鍾離先生は少し屈んで視線を私に合わせた。すごく恥ずかしいし呼び捨てなんて恐れ多いけどやるしかない。

「しょ、鍾離…」

「そうだ。もう一度」

「…鍾離」

「よし、良い感じだ」

 大きな手が私の頭をくしゃりと撫でる。もしかして今頭撫でられた?突然の事に放心していると、鍾離先生…否、鍾離がハッと顔を上げた。

「時間だ。行こう」



 往生堂の顧問の爺さん達、と聞けばどんな小難しいお偉いさんなのかと冷や冷やしていたが、蓋を開けば全員が鍾離先生!鍾離先生!となんとも低姿勢の良い方達ばかりで、想像と違い呆気に取られてしまった。客卿というくらいだからそれなりの地位である事は分かってはいたが、なんだかそれ以上のものを鍾離に感じてしまい、再度只者ではない方なのだなと実感した。皆様でお食事、というわけではなく客間でサラリと挨拶は済まされ、何食わぬ顔で「この前話した婚約者だ」と紹介するものだからもう何度目か分からない赤面を皆様の前で披露してしまったが、初々しいなぁ。と冷やかされるだけで済み胸を撫で下ろした。

「というわけだ。なので俺の事は心配しないでくれ」

 そう締め括ると、顧問の方々は鍾離に一礼すると客間を出て行ってしまった。最後の一人が鍾離と話した後に何かを鍾離に渡していたが一体何だったのだろう。
 全員が出て行き足音も聞こえなくなった事を確認すると、鍾離は私に手を差し伸べた。

「本当にありがとう。少し外を歩かないか?」

 差し伸べられた手をおずおずと取ると、鍾離は往生堂を後にした。



 辿り着いたのは璃月港から少し離れた場所で、この場所からだと璃月港が全て見渡せる。こんなところがあるなんて知らなかった。さすが物知りだと有名なだけあるなと璃月港を見つめる鍾離の横顔をまじまじと見ていると、鍾離の口角が徐々に上がっていく。

「お前は、俺の顔を見るのが本当に好きだな」

 またしてもバレていた。慌てて目を逸らすが、鍾離の手がそっと私の頬に触れ、視線を戻される。鍾離に触れられた箇所が熱い。

「……新月軒でもよく俺の事を見ていたな。何故だ?」

「そ、それは…」

 あまりにも容姿端麗だったので見惚れていました。だなんて言えるわけもなく、おろおろと目を泳がせると、今度はもう片方の手も伸びてきて、鍾離の両手が私の頬を包み込む。

「……俺も、以前よりお前を見ていた」

「……え?」

 以前より私の事を見ていた?驚きのあまり鍾離の顔を見つめると、鍾離の顔が徐々に赤くなっていく。

「…俺が店に立ち寄る度にお前が俺の事を見るものだから、気が付けば俺もお前を目で追っていた。そんな時にだ。今回の話が浮上した。誰かに婚約者の振りを頼まなければと考えた時、頭に浮かんだのはお前の顔だった」

 熱を帯びた鍾離の目がだんだんと近付いてくる。鍾離に包み込まれた両頬がすごく熱い。けれどそれ以上に私の頬を包む鍾離の両手も熱かった。

「…お前に、近付く事ができる絶好の機会だと思った」

 気が付けば鍾離との距離は息がかかるほど近く、どうすることもできない私は目をギュッと瞑って精一杯言葉を絞り出した。

「あのっ、私、自惚れますよ…!」

 表情は分からないが、鍾離が笑った声がした。

「ああ、自惚れてもらって良い」

 ちゅっ、と音がしたかと思えば、額に柔らかい感触。慌てて目を開けると、鍾離の喉仏と目が合った。

「こちらは、次に取っておこう」

 そう言うと、鍾離は私の唇を親指で軽く擦った。キスされた?額に?唇にされると思い早とちりして目を瞑ってしまった事が恥ずかしくて顔から火が出そうになる。いやいや唇じゃなくて額にキスをされたってだけでも大変な事だ。ところで次って一体どういうこと?すると、鍾離は私の目の前に紙を二枚差し出した。

「顧問に貰ったんだ。奥方との新婚旅行にと」

 紙を受け取ると、それは隣国であるモンドのゲーテホテルの無料券だった。

「ホテル…!?えっ、新婚旅行!?」

 紙を握りしめ慌てふためく私を見て笑うと、鍾離は大きな手を私の頭の上に乗せて髪を梳くようにゆっくりと撫でた。

「さっきの続きはここで、だな」

 私の髪を一束取ると、それにそっと口付ける。目を見開いたままその光景を見ていると、鍾離がははっと声を上げて笑った。

「だから、見過ぎだ」

 鍾離に言われたくないよ。そう言い返せるようになるのは、そう遠くない気がする。
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