伏せられた長い睫毛、整った顔、ふわふわの赤毛。
眼前にある寝顔はどう考えたって見覚えのある顔で、それと同時に飛び込んでくるお互いの肌色の多い光景に頭が何かで殴られたかのように痛んだ。いや、この痛みは何度も経験しているもので、酒を飲みすぎた翌日によく起こるものだ。所謂、二日酔い。大体二日酔いの朝は前日の酒を飲んだ時の記憶を綺麗さっぱり忘れており、今回も例に漏れず昨夜の事が全く思い出せない。しかし、とっくに成人した男女が素っ裸で同じベッドで寝ていたとなれば思い当たる事なんてひとつしかない。
ああ、どうしよう。曲がりなりにも騎士団の一員でもある私が酒に酔いワンナイトラブなどジン団長の耳にでも入れば懲罰房送りは免れない。
寝息を立てる相手を起こさぬようにそっとベッドから出て脱ぎ捨てられた服をかき集める。とりあえず服を着てこの場を去るしかない。私が昨夜の事を覚えていないのなら今眠っている彼ももしかしたら覚えてないという可能性もある。私がこの場から居なくなれば何も覚えてない彼は何故だか裸で寝ていたんだなで済む筈だ。そっと下着を身につけシャツに手をかけたところでベッドがぎしりと音を立て軋んだ。
「……起きていたんだね。おはよう」
「………おはよう」
全ての計画がガラガラと崩れる音がした。少し眠そうに目を細める赤毛の男、ディルックは私を見るとさも当然のように朝の挨拶をした。私とは違い特に動揺する様子がない彼にもしかして、と額に汗が滲んだ。
「……ディルック、昨夜の事覚えてる?」
「勿論」
勿論、だって?額から汗がたらりと流れる。覚えていないよとでも言われるのかと思っていた私は返答に詰まり言葉を失っていると、そんな私を見てディルックはふっと微笑んだ。
「…今更、照れているのかい?」
ディルックの大きな手が私の腕を引く。えっ、と言葉を発する前に、私の唇はディルックの唇により塞がれてしまった。突然の事に頭が真っ白になる。唇が離れたかと思うと、ディルックは私の目元や頬に何度も何度も触れるだけのキスをした。
「ちょっ!、と待っ……し、仕事に行かなきゃ!」
慌ててディルックから離れると、かき集めた服に素早く着替える。下着姿のまま服を身につけていく私を見るディルックの視線が痛いが、さっきのディルックの反応からして昨夜とんでもない事をしてしまったのは明白だろう。今更恥ずかしがらなくても良いだろうと自分に言い聞かせて開き直った。
「…じゃ、じゃあ行ってきます」
上着に袖を通しディルックの方を見ると、ディルックはベッドから出て、私へと近寄る。次はなんだと体が小さく跳ねるが、そんな私の事などお構いなしにディルックの手が私の腰を引いた。ぐんと近くなるディルックとの距離に息を呑む。また、キス?と顔に熱が集まる。思わず目をぎゅっと瞑るが、いつまで経っても口付けが降ってくる事はなかった。あれ?と思い薄目を開けると、ディルックは私の手を掴み、それを自分の口元へと持ってくる。私の指先を親指で少し擦ると、そこにちゅっと音を立ててキスをした。
「気を付けて」
まるでお姫様でも扱うかのような振る舞いに体中が熱くなる。飛び退くかのようにディルックから離れると、私はその場を後にした。
◇
朝起きたとんでもない出来事が何度も頭の中で繰り返される。恋愛経験がさっぱりないわけではないが、モンドに住む女性ならば誰しもが憧れるディルックにあんな事をされて正気でいられる程も経験が豊富なわけでもなければ目も肥えていない。
アカツキワイナリーの当主でエンジェルズシェアの経営者。そして元西風騎士団の騎兵隊隊長のディルック・ラグヴィンド。容姿端麗、眉目秀麗。モンド市民からの信頼も厚く、彼がモンド城を歩けば振り向かない女性などいない。
エンジェルズシェアによく通う私は、たまにバーテンダーとして現れる彼と多少の接点はあった。同僚であり飲み仲間であるガイアは彼の義弟であり、エンジェルズシェアでガイアと飲みに行く時にディルックがバーテンダーをしていると、何故だか仲の悪い二人はいつも口喧嘩を始める。そんな二人をよく仲裁するのは私だ。なのでディルックも私の存在は以前より認知していただろう。しかし、カウンターで飲む時に少し言葉を交わす程度、モンド城内でばったり会うと挨拶をする程度の仲だ。今朝のまるで恋人のような扱いは夢でも見ていたのかと思ってしまうくらいおかしな事だ。
そりゃ私だってモンドを守る騎士の一員ではあるが、ディルックのような完璧な男を前にすると鼓動が速くなってしまうし、意を決してじゃないと目も見れないくらいには女らしい一面だってある。つまり、ディルックは私にとって前から憧れの男性だったのだ。
やはりどう考えたって昨夜、彼と私の間に何かがあったのだろう。何かってそりゃひとつしかないけれど、それ以外にも重要な事があった気がするのだ。覚えてないけれど。
酒を飲むのも程々にしないと…と頭を抱えていると「よっ!」という聞き覚えのある軽快な声がした。
「昨夜はお楽しみだったみたいだな」
突然現れたガイアの口から放たれた言葉にこれでもかというくらい目を見開くと、ガイアが「冗談だよ」と笑った。いや、冗談じゃないんだけれど。と思わず言いそうになったが、すんでのところで呑み込んだ。ガイアは昨夜共に飲んでいたメンバーの中の一人で、もしかしたらガイアなら何か知っているんじゃと思い、私はできるだけ平静を装ってガイアの腕を引っ張った。
「ガイア、昨日の私どんな感じだった?」
「昨日?お前、覚えてないのか?ベロベロに酔っ払ってエンジェルズシェアの三階に運ばれてたじゃないか」
朝目覚めた部屋に見覚えがなかったが、部屋を出ると馴染みのある光景が広がっていて、ここはエンジェルズシェアだったんだと気付いたのは確かだ。ベロベロに酔っ払った私を運んだのは一体誰なんだろうと首を捻ると、何も言わずとも私の考えてる事が分かったのか、ガイアは呆れたように笑った。
「ディルックの旦那がお前を三階まで運んだんだよ。しかし一向にお前達二人が下りてこないもんだから流石の俺も心配したんだが、あの堅物が女に手を出せるわけがないと思って俺達は閉店と同時に帰ったんだ」
徐々に謎が解けてきた。けれど結局私とディルックの間に何があったのかなんて勿論ガイアは知るわけがない。やっぱりディルック本人に直接聞いた方が良さそうだ。額に滲む汗をそっと拭くと、珍しく口数の少ない私を見てガイアが驚愕の表情を浮かべる。
「…お前、まさか旦那と…」
「じゃ、じゃあね!」
手を振り足速にその場を去る。ガイアが「今度詳しく聞かせろよ」と言っていた気がするが聞こえていないフリをした。
ディルック本人に聞くにしても、向こうは覚えているのに私は覚えていないので詳細を教えてくれと伝えるのは失礼ではないだろうか。だらしない女で、自分以外ともこういう事をしているんじゃないかと思われないだろうか。ぐるぐると色んな考えが頭を回る。段々気持ちが沈んできた。折角少し言葉を交わせるくらいの仲になったというのに、何も覚えてないと伝えて軽蔑され、目も合わせてくれなくなったらどうしよう。
長い長い私の溜め息を風が攫っていく。今朝口付けられた指先をまじまじと見つめていると、何かが俯く私の頭にぶつかった。
「す、すみません」
「…見つけた」
慌てて顔を上げると、そこには今まさに私を悩ませているディルックが微笑みを浮かべて立っていた。驚いてあっ、と声を出すと、ディルックは不思議そうに首を傾げた。
「そんなに驚いてどうしたんだい?」
「……今、ディルックの事考えてて」
ディルックの目が大きく開かれる。確かに今私はディルックの事で頭がいっぱいだ。間違った事は言っていないがこの言い方だとまるで私が四六時中ディルックの事を考えている浮かれた女みたいじゃないか。否定しようと思ったが、ディルックの頬が薄く色付いているのを見て思わず口を噤んだ。
「……実は僕も、昨夜から君の事ばかり考えているよ」
そう呟くと、ディルックは赤い顔を隠すかのように顔を背けた。一体、どんな素晴らしい夜だったのだろうか。羞恥心と罪悪感が入り乱れる。うう、やっぱり聞けない!どうしたものかと頭を抱えると、いつの間にかいつもの無表情に戻ったディルックが「ああ、そうだ」と私に向き直った。
「今夜またエンジェルズシェアに出勤するんだ。良かったら来てくれないか?」
「…う、うん。仕事が終わってからだから遅くなると思うけど良い?」
「構わない」
ディルックは頷くと、「じゃあまた後で」と言い少し名残惜しそうにその場を去った。
夜の見回りが終わってからだから閉店間際になるけれど、それくらいの時間ならばお客さんも少ないし、ディルックとゆっくり話せるかもしれない。彼との関係が拗れてしまうかもしれないけれど、 いつまでもうやむやな関係のままでいるわけにはいかない。「よし!」と両手を握り、私は残りの仕事に励んだ。
◇
エンジェルズシェアの扉を開くと、髪を高い位置で束ねたディルックが私に気付き「いらっしゃい」と微笑んだ。その笑みに胸が高鳴るが、落ち着け落ち着けと深呼吸をした。そっと周りを見渡すと、珍しい事に今日はお客さんが一人も居なかった。そんな私の視線に気付いたのかディルックも空の店内を見渡し小さく息を吐いた。
「さっきまで忙しかったんだ。けれど君が来る少し前に皆帰って行ったよ」
「…そ、そっか」
「…実は君に飲んでほしいものがあるんだ」
ディルックは私に椅子に座るよう促すと、グラスに入った飲み物を私に差し出した。赤紫色の飲み物をそっと口にすると、甘い葡萄の味が口の中に広がる。これはもしかして…とディルックの顔を見ると、ディルックは満足そうに頷いた。
「ブドウジュースだよ。僕のお気に入りなんだ」
「…美味しい。けど、何でブドウジュースを私に?」
ブドウジュースが嫌いというわけではないが、私はエンジェルズシェアでジュースを頼んだ事がない。いつもお酒ばかり頼んでいた私に何故ディルックはブドウジュースをご馳走してくれたのだろうか。
「……君はいつも酒を飲みすぎるだろう。少しはノンアルコールの飲み物の魅力を知ってほしくてね」
ディルックの言葉に何だか恥ずかしいような情けないような気分になる。しゅんとする私を見てディルックは少し笑うと、カウンターを出て扉を開けた。どうしたのかと振り向くと、ディルックは扉に掛けられた札を裏返し、扉を閉め鍵を掛けた。慌てて時計を見るが、閉店時間までまだ数十分ある。良いのだろうかとディルックと時計を交互に見ると、ディルックは「どうせ誰も来やしないさ」と言い、私の隣に腰掛けた。
肩が触れそうなくらいの距離にいるディルックに手が汗ばむ。ちらりと隣に座るディルックを見ると、ディルックは頬杖を付きながらジッと私の事を見ていた。慌てて視線を目の前にあるブドウジュースへと逸らすと、ディルックがふっと笑った気配がした。
「……酒も飲んでいないのに、何故君はそんなに真っ赤なんだい?」
愛しさと揶揄いを含んだ声色。分かっているくせに意地悪だ。ディルックの方を見れずブドウジュースと睨み合っていると、ギッと椅子が軋む音がして、ディルックの大きな手が膝の上に置かれた私の手へと重なった。
「…キスがしたい」
うんと近くで囁かれた熱を含んだ声に思わずディルックの方を見ると、至近距離にあって彼の紅い瞳と目が合った。伸ばされた彼の手が私の頬へと触れる。驚いて体が小さく跳ねる私を見て、ディルックは少しだけ眉を下げた。
「……駄目?」
残念そうに呟かれたその声に、ただでさえ煩かった心臓が馬鹿みたいに大きな音で鳴り出す。駄目かと聞いておきながらも徐々に近付いてくるディルックの顔に目を瞑りかけるが、本当にこのままで良いのか?と疑問が浮かび上がる。これではまるで彼を騙しているみたいだ。ハッとして目を開けると、私は触れそうな距離にあったディルックの唇を手で押さえた。
「ディルック、待って」
唇を押さえられ、目を瞬かせていたディルックが真剣な私の声を聞き座り直す。
さっきまでの甘い雰囲気とは裏腹に重い沈黙が流れる。ジッと真剣な眼差しで私を見るディルックにやっぱりやめておこうかなという気になるが、私を心配しブドウジュースを作ってくれた彼に中途半端な気持ちで向き合っては駄目だと思い直し、私は意を決して口を開いた。
「ごめんね。実は、昨夜の事全然覚えてないの」
ああ、言ってしまった。酒に溺れ、体を重ねただらしない女だと軽蔑されるのだろうか。緊張で指先が冷たくなる。ディルックの顔が見れず俯いていると、頭にふわりと何かが乗った。
「…何となく、そんな事だろうと思っていた」
頭に乗っていたのはディルックの大きな手で、顔を上げるとディルックは私の頭をゆっくり撫でた。
「……知ってたの?」
「今朝気まずそうにしている君を見て何となくね。それに君は以前から酒を飲み過ぎて記憶を飛ばしていただろう」
肩をすくめるディルックに拍子抜けする。何だ、全部分かっていたのか。罵詈雑言を浴びせられる覚悟でいたから身体中の力が一気に抜けた。思わずバーカウンターに突っ伏すと、ディルックはそんな私の頭を撫で続けながら小さく笑った。
「…それに、昨夜の事は君にとって忘れた方が良い事もあると思うが」
「…え?」
そ、そんなに私は霰もない姿をしていたということだろうか。熱が集まり赤くなった頬を両手で押さえながらディルックを見ると、ディルックはそんな私の反応を見て首を捻った。
「…君は、何か勘違いをしていないか?」
「だって、私、昨夜ディルックと…その、体を…」
段々語尾が小さくなっていく。こんな事言わせないでよという思いを込めてディルックの目を見るが、ディルックは「体?」と言い顎に手を当てている。ん?何だかディルックと会話がズレている気がする。もしかして…
「…私ってディルックと、その…体を重ねてない?」
「………僕がベロベロに酔っ払った君に手を出すような男だと思っていたのか?」
確かによく考えるとディルックは酔った女に手を出すような男ではない。でもなら何故あんな事にという疑問が頭の中にいくつも浮かび上がってくる。
「じゃあ何で私達朝起きた時素っ裸だったの?」
「…君が僕の服に嘔吐したからだ。生憎あの部屋には着替えがなくてね。取りに帰ると僕が言ったら君が行かないでと駄々をこね出したうえに自分だけ服を着ているのは申し訳ないからと服を脱ぎ出したんだ」
体を重ねてしまったのではという誤解をうんと上回るような衝撃の事実にくらりと眩暈がした。ディルックの目の前で嘔吐しただけではなく、ディルックの服に吐瀉物を付けてしまったなんて失礼にも程がある。間違いなく今までの人生の中でも率先して忘れたい記憶のひとつに刻まれてしまった。しかも申し訳ないから自分も服を脱ぐだなんて、なんてタチの悪い酔っ払いなんだろう。
「……本当にごめんなさい」
「別に構わないよ」
「……あともうひとつ。今朝から、その…何で私への態度が以前と違うの?」
何故優しくしてくれるのか、何故キスをするのか。体を重ねたからなのかと思っていたが、そうでないなら何故だというのか。さっきまで淡々と説明していたディルックだったが、私の言葉に少し顔が曇ったような気がした。
「…やっぱり、それも忘れてたのか」
「…ご、ごめん」
「……君が僕に憧れていた。僕と二人きりになれて嬉しいと言ったんだ」
「………え?」
「それは僕を好きという事?と聞くと君は頷いた」
どうやら、酔っ払った私は随分と大胆になるらしい。またしても衝撃の事実に頭が真っ白になる。何て事を口走っているんだ私は!確かにディルックには憧れていて、ディルックと二人きりになれる機会なんて滅多にない。けれど思いを伝えるのはもう少し段階を踏んでからと思っていたのに!意中の人から告げられる自分の奇行を聞くのは心臓に悪すぎる。いや、全て私が悪いのだけれど。頭を抱えこの場を飛び出したいくらいには恥ずかしい。しかし、動揺し挙動不審になる私とは違いディルックは頬杖を付き、黙り込んでしまった。さっきよりも一層暗い表情を浮かべる彼の顔を覗き込むと、紅色の瞳が動き、私を捉えた。
「……昨夜の君の発言は、酔った君の戯言という事だろうか?」
紅色の瞳が不安気に揺れる。こんな顔をしたディルックを見るのは初めてだ。いや、今朝から彼が見せる顔は今まで見たことのない表情ばかりだった。それは彼が好きな人にしか見せない表情だったのではないだろうかと、今にも泣き出しそうな彼を見て思った。
「……戯言じゃないよ。ディルックが好き」
言ってしまった。素面で言うのはこんなにも恥ずかしいのか。でも昨夜の私の方が色々と恥ずかしい事をしていたのだから!と、自分に言い聞かせる。
頬杖を付いていたディルックがぴくりと動いたのと同時に、鼻先にドンと何かがぶつかる。ぶつかったのはディルックの胸板で、慌てて顔を上げると、相変わらず泣きそうな顔をしたディルックと目が合った。するとディルックは私の体をぎゅっと抱き締め、肩口に顔を埋めた。
「……良かった」
弱々しい声に一瞬でも彼を不安にさせてしまった申し訳なさが胸に広がる。私を抱き締める彼に応えようと彼の背中に腕を回すと、ディルックの力が段々強くなっていく。私の肩口に顔を埋める彼に頬擦りすると、ディルックがゆっくり顔を上げた。熱を帯びた目がちらりと私の唇を見る。徐々に近付いてくる顔、瞳を閉じるディルック。心臓が飛び出してしまうんじゃないかと思うくらい煩くて、煩くて、気が付けば私はディルックの唇をまたしても手で押さえていた。
「………何故」
ジロリと眉を寄せたディルックが私を見る。
「その、まだ慣れないので…」
ディルックから視線を逸らし離れようとしたが、彼の手は私の体を包み込んだままびくともしない。
不満気な表情の彼と目を合わせ、誤魔化すかのように小首を傾げてみる。
「…お、お友達からじゃ、駄目?」
私の言葉を聞くと、ディルックは目を丸くし、呆れたように笑った。
「嫌に決まってるだろう」
私の後頭部を大きな手が包み込む。噛み付くようなキスをされ、体中が沸騰したみたいに熱くなる。
このドキドキに慣れるには、まだまだ時間が掛かりそうだ。