夜の終わりのプランタン

「いらっしゃい」

 エンジェルズシェアの扉を開けると、カウンターに立っていたのはいつものバーテンダーのチャールズではなく、髪を一つに纏めた仏頂面の男だった。

「あれっ、今日はディルックなんだね」

 そう声をかけて椅子に腰掛けると、ディルックは溜め息を吐きながら頷いた。チャールズの代わりにディルックがバーテンダーとしてここに立っている事は珍しい事ではない。何故こんなにも彼は不機嫌なんだろう。苛々した様子でシェイカーを振るディルックを眺めながら何を頼もうかと考えていると、隣の椅子に誰かが座る気配がした。

「よっ、お前も飲みに来たんだな」

 聞き慣れた声に顔を向けると、少し赤い顔をしたガイアが私の隣に腰掛けた。なるほど、ディルックが不機嫌なのはガイアがいたからなのか。カウンター越しに、腰掛けたガイアを見るとディルックの顔が益々不機嫌そうに歪むのが分かった。

「絡むな、酔っ払い」

 赤い瞳が細められて、ガイアを睨み付ける。それを見たガイアは「おお、怖っ」といって両手を大きく広げた。色んな意味ですっかり仕上がった二人は正直微笑ましいが、当人達、というよりディルックの機嫌をこれ以上損ねるわけにはいかないと思い、私は二人の間を割るように「リンゴ酒ひとつ!」と大きな声でディルックに注文した。

「おいおいそこは午後の死だろ?」

 空いたグラスを傾けながらガイアが私の肩に腕を回した。午後の死とはガイアがよく飲んでいる強いお酒だ。どうやら今夜のガイアは珍しく酔っ払っているらしい。シェイカーを振りながらディルックがガイアを睨み続けるので、私はガイアの腕からやんわりと抜け出した。

「ガイア飲み過ぎ。ディルックに迷惑かけちゃダメでしょ」

「迷惑なんてかけちゃいないさ。今日は折角愛しのお姫様に会えると思ったのに、お姫様がなかなか来ないから旦那様はご機嫌斜めになっちまったんだよ」

 なぁ?と言ってガイアがディルックの方を向くと、ディルックはシェイカーを振る手をピタリと止めた。お姫様って一体何の事?考えを巡らせていると、ディルックがガイアの手から空いたガラスを奪い取った。

「閉店時間だ。帰ってくれるか」

「おいおい、冗談はよせよ。閉店時間までまだ数時間あるだろう?」

 またしてもガイアが両手を広げてオーバー気味にリアクションを取ると、ディルックの手にあるグラスがピシリと音を立て、周囲の空気が変わった。

 すごく、怒っている。

 さすがのガイアも目を泳がせて「今日はここまでにしとくか」と言い、カウンターの上にお金を置いた。

「ディルック、これは貸しだからな」

 じゃあな、と言いガイアは私達に手を振って出て行った。

「…そういうことか」

 ディルックが小さく呟いた気がして、ディルックの顔を見ると、目が合ったのに何故だか思いっきり逸らされてしまった。もしかして、ガイアにだけじゃなくて私にも怒っているんだろうか?まだ一杯も飲んでいないけど、今日は帰った方が良いのだろうか。そーっと椅子から立ち上がると、そっぽを向いていたディルックが勢いよくこっちを見た。

「何処に行くんだ」

「えーと、今日は帰った方が良いかなと、思って…」

 居た堪れない気持ちになり、小さな声でそう言うと、またしても沈黙が訪れる。もしかして、選択を間違えた?一杯も飲まずに帰るなんてよく考えたらその方が失礼だったのかも。椅子から立ち上がりかけた変な体勢のまま固まっていると、ディルックがゆっくり頭を横に振った。

「帰らないでくれ」

「…え?」

「…僕は、本当は今日は出勤日じゃないんだ」

 一体どういうこと?ディルックの顔を見ると、不安げに揺れる赤い瞳と目が合った。さっきのように目を逸らす事なく、その瞳は私の目をじっととらえて離さない。

「君が今日来ると聞いて、チャールズに無理を言って変わってもらったんだ。なのにガイアがいて、少し苛立ってしまった。君に気を遣わせるつもりはなかったんだ」

 すまない、と言ってディルックが目を伏せる。え?私が今日来ると聞いてわざわざ出勤したってそれってもしかして…
 よく見るとディルックの顔がほんのり赤くなっていて、それにつられて私の顔にも熱が集まる。
 どうやら今夜はお酒よりも、彼の言葉に酔わされてしまいそう。
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