何かが燃えるような匂いがした。こういった夜はモンドは英雄に守られているんだなあとしみじみ思う。なんて、騎士団の私が思っちゃいけないんだけど。
闇の中から聞こえる足音はやはり英雄のそれで、「大丈夫?」と声を掛けると、暫くしてから「ああ」とだけ返ってきた。なかなか姿を見せない彼に違和感を感じて、暗い路地裏へと足を踏み入れる。
「…なんだ」
不機嫌そうに眉を寄せる闇夜の英雄、その正体であるディルックは左腕を押さえて路地裏に座り込んでいた。
「闇夜の英雄様が珍しいね」
「…ガイアみたいな事を言うようになったんだな」
舌打ちでもしかねない勢いでそっぽを向くディルックの側にしゃがみ込んで左腕に手を伸ばすと、ディルックの体がビクリと震えた。
「手当くらいさせてよ」
ああ、そう言う事かとでも言うかのようにディルックの体の力が抜けるのが分かった。神の目の力を使ってディルックを治療すると、眉間に寄っていた皺が少しマシになったような気がした。
「…ありがとう」
ぶっきらぼうで愛想のない男だが、礼儀だけは正しいから嫌いになれなかったりする。
容姿端麗でアカツキワイナリーのオーナー。元騎士団であり、そしてモンドを守る闇夜の英雄。非の打ち所のない完璧なスペックを持つこの男がディルック・ラグヴィンドだ。整った顔に付いた血を拭うと、ディルックはバツが悪そうに空を仰いだ。
「今日は、思ったよりもアビスの連中の数が多かったんだ。そこにヒルチャールの群れも来るし、散々だったよ」
負傷したところを私に見られたのがよっぽど悔しかったのか、珍しく言い訳のような愚痴を言うディルックに思わず笑みが溢れる。それに気付いたのかディルックの眉間にまたしても皺が刻まれた。
「何がおかしい」
「なんでもないよ」
モンドを守るという意思は同じなのに、ディルックは西風騎士団を抜けて闇夜の英雄として秘密裏に活動している。元騎士団の仲間であった私や、義弟のガイアは恐らく闇夜の英雄の正体がディルックだという事を気付いているが、平和に暮らすモンドの人達はまさか闇夜の英雄がアカツキワイナリーのオーナーであるディルックだなんて思ってもいないだろう。
ディルックは昔から無茶をする性格だ。騎士団を抜けた後でもこうして私が気にかけているのはそんな彼が心配だからだったりする。こんな事を言うと、「大きなお世話だ」と言って彼は怒るのだろうけど。
「騎士団に戻ってきたらいいのに。闇夜の英雄と違ってパトロール代も出るよ?」
「…本当にガイアのような事ばかり言うんだな」
嘲笑混じりに小さく呟くと、ディルックは突然糸が切れた操り人形のようにガクリと下を向いた。
「ディルック!?」
慌てて彼の肩を揺さぶって顔を覗き込むと、真っ赤な鋭い瞳と目が合った。まるで手負いの獣のような瞳に心臓が大きく脈打ったのが分かった。ハッとした時には勢いよく腕が伸びてきて、引き寄せられていた。
「ディ、ディルック!?」
突然の彼の行動に声が裏返る。そんな動揺した私の声を聞いてか、ディルックがふっと笑ったのがわかった。私の肩にぐいぐい額を擦り付けるディルックはまるで猫みたいで、いつもは手を伸ばさないと届かない距離にある彼の頭をゆっくりと撫でてみた。
「…少し、疲れたんだ」
まるで蚊の鳴くような、普段聞いたことのないような弱々しい声がした。空いていた方の手でディルックの体をギュッと抱き締めると、ディルックの両手が私の背中に回るのが分かった。モンドを守る英雄の弱音も、こんな姿も、朝になると全て無かったことにしよう。それまではどうか、この腕の中でゆっくり休んでね。