月の光さえも入らないメロピデ要塞の夜は暗い。枕元の照明を点ける事なく隣で寝息を立てている彼の背中をジッと見つめる。暗闇に目が慣れてきたのか、傷だらけの大きな背中が見える。遥か昔に付いたであろう傷跡を指先でそっとなぞると、ゆっくり上下していた背中がピタリと止まって、布が擦れる音がした。
「…起きていたのか?」
少し掠れた公爵の声が響く。こちらを見る事なく、背中を向けたままの彼は、どんな顔をしているのか分からない。
戻ろうと思えば戻る事だってできるのに、水の上に戻る事をせず、うだうだと言い訳ばかり並べて下ばかり向いている女を抱いた気分はどう?と聞いてみるほどの度胸はなかった。
「眠れなくて」
行為後で疲れているのは勿論だが、それよりも複雑な感情が胸の中を渦巻いて、疲労なんて二の次のような気がして眠れずにいた。ごそごそと公爵が寝返りを打つ音がして、私は慌てて公爵がいる方とは反対方向を向いた。
「……おや、お嬢さん?釣れないじゃないか」
「……」
いつも小競り合いをする時に使う、私を煽るような声色とお嬢さん呼び。きっと、私が背を向けた事が気に入らないのだろう。すぐ側で聞こえる彼の声に反応する事なく沈黙を貫いていると、何かがぬっと目の前に伸びてきて、私の体は公爵がいる方へと勢い良く引き寄せられた。
「ちょ!…………びっくりした」
伸びてきたのは公爵の腕で、その腕は私の体を自分の方へと引き寄せると、ごそごそと何かを探しているようだった。何をしているんだろうとされるがまま固まっていると、公爵の手が私の両手を掴んで、自分の指を絡ませた。
「…まるで恋人同士みたい」
「俺には今、丁度恋人がいなくてな…レディ、どうだい?」
「バカ」
公爵のこの手の冗談は聞き飽きた。お決まりのやり取りになりつつあるこの流れをいつも通りに返してみるが、いつまで経っても公爵は何も言わなかった。けれど、背中に触れている彼の胸が大きく上下したような気がした。ふぅ、と小さく聞こえた溜め息のようなものに、思わず彼の顔を見ようと首を捻ると、何を思ったのか公爵は私の頬を撫でてキスをした。ちょっと待って、そういうつもりじゃと唇が離れた隙に言おうと思ったのに、強請っていると思ったのか、公爵はもう一度深く私に口付けた。
「言っておくが、」
唇が離れると同時に聞こえた公爵の声に閉じていた目をゆっくり開くと、アイスブルーの瞳が私の事を真っ直ぐ見つめていた。
「俺は誰でも抱くわけじゃない」
反射的に手に力を入れていたのだろう。それを自分の手を握り返したと勘違いした公爵がもう一度顔を近付けてきた。捻っていた首を戻して、少し前と同じように公爵へと背を向ける。すると、また公爵が溜め息を吐いたような気がした。
「……そんな事言われて、私はどうしたら良いの」
転がり落ちた言葉は紛れもない本心だった。きっと、私の声は震えていたのだろう。公爵は私の体を壊れ物に触れるかのようにそっと抱き締める。そんな彼の腕を解くと、公爵は少し狼狽えたような気がしたが、私が自分の方へと体を向けたのを見て、公爵は安堵したように微笑んだ。
「余計な詮索はあんたの悪い癖だ。大方当たっていないし的外れだ」
「……つまり?」
「俺の言動と行動をストレートに受け取っておけば良い」
公爵は腕をだらんと伸ばすと、そこをトントンと叩いた。大人しくその上に頭をそっと置くと、髪の毛をぐしゃぐしゃと撫でられる。
「あと、俺は好いてる女にしか腕枕はしない」
「……ほんとかな?」
「それだ。あんたの良くない癖」
でも、仕方ないじゃないか。私の経歴を知っているあなたなら私がこんな風に考えてしまう事くらい分かってるでしょ?と目で訴え掛けると、なぜか公爵は目尻を下げて私の顔をジッと見つめている。愛おしいものを見るような、そんな視線を注がないでほしい。勘違いしてしまうじゃないか。いや、でも公爵が言っていた言葉を信じるのなら、これはただの偽善でも戯れでもなくて、彼の本心から齎されている行動なのだろうか。恐る恐る手を伸ばして彼の胸板に触れると、公爵は私の手の上に自分の手をそっと重ねた。
「あんたから俺に触れてくるのは二度目だ」
「二度目?」
「俺の背中の傷をなぞっていただろう」
やっぱり、気付いていたのか。あの行動に特に意味は無くて…と弁解しようとしたが、公爵が嬉しそうに笑うものだから、私は何も言えずに目を逸らした。
「あんたからしたら何気ない事なのかもしれないが、警戒心の強いあんたが人に触れるなんて、俺からしたらメロピデ要塞が水の上にすっ飛んじまうくらい驚いたぜ?」
「ふふ、水の上にすっ飛ぶのは困るよ。水の上は怖いもの」
「どこにいたって守ってやるさ」
公爵の腕が背中に回って、私を抱き寄せる。お互いの体がピタリとくっ付いて、お互いの鼓動が伝わるようだった。
「……公爵」
何を言おうとしているのか自分でも分からなかったけど、ぽつりと口から彼の名が出た。信じてもいいのかな。分からないけれど、彼の全てが嘘を吐いているようには思えなくて、彼が発した言葉は彼が言ったように、そのまま受け取るべきなんだと思う。
「リオセスリ。今からは名前で呼んでくれ」
リオセスリは私の手を手繰り寄せると、指先に音を立て、まるで誓うみたいにキスをした。彼のぬくもりとあたたかい言葉に包まれて、まるで眠くなかったのが嘘のように突然睡魔が襲ってきた。目を閉じると、リオセスリは私の頭を撫でながら「おやすみ。俺の愛しい愛しい…」と私の名を囁いていたような気がする。
どこにいたって守ってやると言った彼の言葉が胸に沁み込んでいく。物憂げな日々が、彼のおかげで色付いていくようだ。ねぇ、私も好きな人にしか抱かれないよって目が覚めたら伝えてみようかな。