冷えた指先をポケットの中に突っ込んだ。ブーッという音がして、慌ててスマホを取り出すと、その画面にはここ数週間は会えていない彼の名前が表示されていた。丁度最寄駅に着いたところだったので、慌てて電車を降りて、駅のホームの端っこで電話に出ると、『もしもし!?』となぜか息を切らした様子のカーヴェの声が耳に飛び込んできた。
「もしもし、どうしたの?なんか…慌ててる?」
まるで走りながら電話をしているかのような音がする。カチャカチャと彼の鞄に付いたキーホルダーが鳴る音と、ドタドタとした足音。首を捻らせながらカーヴェの返事を待つと、カーヴェが『こっち!時計の方!』と言った。その声が電話口からと、どこかからと二重で聞こえたような気がして、咄嗟にカーヴェが言った時計のある方へと視線を向けた。
「……カーヴェ!?」
駅のホームから見える駅の出入口。そこでカーヴェは満面の笑みで私に手を振っていた。なんでここに!?と言おうと思ったが、それよりも先に足が動いていた。
「し、仕事は!?大丈夫なの!?」
『少し抜けてきた。もう随分君に会っていなかったから、その……』
改札を抜けてカーヴェのいる出入口へと走る。自分の呼吸と足音で電話口のカーヴェの声が上手く聞き取れない。よく考えたらさっきのカーヴェと同じような状況になっている事に気が付いて何だか笑えた。私の鞄にも付いているカーヴェとお揃いのキーホルダーがカチャカチャと鳴っている。
「カーヴェ!」
「久しぶり!」
私の姿を見つけると、カーヴェは耳に当てていたスマホを鞄の中へと突っ込んで、私に向かって両手を大きく広げた。迷わずその胸の中に飛び込みたかったが、帰宅ラッシュで人が行き交う中、まるで数年ぶりの再会かのように、なりふり構わずカーヴェの胸の中に飛び込む事など出来る度胸は、残念ながら私にはなかった。行き交う人々の視線に気が付いたのか、カーヴェも広げていた手をサッとポケットの中に仕舞うと、照れ臭そうに笑った。
「ごめん、つい…」
「ふ、ふふふ」
カーヴェらしい一連の行動に思わず笑みが漏れる。カーヴェはそんな私を見てつられるかのように目尻を下げたが、すぐムッとした顔になって、私の頬をゆるくつねった。
「笑いすぎだ」
「ふふ、ごめんごめん」
私の頬をつねるカーヴェの指先がひんやりしている事に気が付いた。よく見ると鼻の頭も赤くなっている。そっと手を伸ばしてカーヴェの頬に触れると、カーヴェは大きな瞳を瞬かせて首を捻った。
「どうかしたのかい?」
「……もしかして、ずっと待っててくれたの?」
カーヴェの体が小さく跳ねる。この様子だと図星のようだ。走ってきた事によりぐしゃぐしゃになっているであろう私の髪をカーヴェの指先が整えてくれている。これでよしと言うかのようにぽんぽんと私の頭を軽く叩くと、カーヴェははぁーと大きく息を吐き出した。
「……そうさ。仕事が少し落ち着いたから君を驚かせようと帰宅時間を予想して待っていたんだけど、君はいつも電車の最後尾に乗っているだろう?なのに僕とした事が間違えて逆方向で君を待っていたんだ。電車がホームに入ってくるのが見えて慌ててここまで走ってきたってわけだ」
カーヴェは下唇を噛んで恥ずかしそうに頭を掻いた。
カーヴェはデザイナーの仕事をしている。相手先から無茶な納期を指定された挙句、滅茶苦茶な要求をされて今かなり忙しい状況だ。なので私達はここ数週間ろくに会えていなかったのだけれど、そんな中、時間を作ってわざわざ私の帰宅時間に駅で待っていてくれたなんて、嬉しすぎるじゃないか。
「カーヴェ!」
「わああ!ちょっと、何してるんだ!」
堪らずカーヴェに抱き着くと、カーヴェは私を受け止めつつも周りの人の目を気にしてか、そっと私を引き剥がそうとした。しかし、カーヴェの可愛いサプライズの全貌を知って、もう人目なんて気にならなくなってしまった私はカーヴェから離れる気なんて更々ない。キョロキョロと周りを見ていたカーヴェは離れようとしない私に降参したようで、自分の腕を私の背中へと回した。
「……知り合いに見られても知らないぞ」
「良いよ。酔っ払ったカーヴェに抱き着かれたって事にしておくから」
「君ってやつは!」
カーヴェがわざと私を強い力で抱き締める。苦しくてあはは!と大きな声で笑うと、カーヴェも楽しそうに声をあげて笑った。久しぶりのカーヴェの体温と、カーヴェの匂い。このまま目を瞑ってカーヴェの腕の中で眠ってしまいたいけど、きっとこの後もカーヴェは仕事があるんだろう。そっと腕を緩めてカーヴェから離れると、カーヴェも名残惜しそうに私から腕を離した。
「……仕事、頑張ってね」
「…ああ」
カーヴェが左手にある腕時計をチラッと確認した。もう戻らなければいけないんだろう。申し訳なさそうに顔を上げたカーヴェに笑みを向けて一度頷くと、カーヴェの顔が一瞬だけくしゃりと歪んだ。えっ、と思ったと同時に腕を引かれて、カーヴェの顔が近付いてきたかと思えば、何かが唇にゴチンと当たった。
「「痛っ」」
カーヴェと私の声が重なって響き渡る。恐らく、私にキスをしようとしたカーヴェが力加減を誤って唇同士が勢い良くぶつかってしまったんだろう。お互い唇を手で押さえながら目を合わせると、かっこつかず眉を下げるカーヴェが面白くて、可愛くて、またしても私は声をあげて笑ってしまった。
「ふ、ふふ!あはは!」
「……はぁ、何で僕はいつもこうなんだ…」
頭を抱えるカーヴェの体をバシバシと叩く。笑いすぎて涙が滲んできたけれど、カーヴェは結構本気で凹んでいるみたいだから何とか笑いを収めなくちゃ。すーはーと深呼吸を繰り返してみるが、やっぱりさっきの事を思い出してしまって、またしても私はぶっと噴き出してしまった。
「ご、ごめん…あはは!」
「気が済むまで笑ってくれ」
仕方ないなぁと言うかのように笑って、カーヴェは笑い続ける私の頭を撫でた。私の顔を見て微笑むカーヴェの顔はとても優しくて、愛おしいものを見るかのようなその視線が擽ったい。
「……カーヴェのこういうところ、大好きだよ」
「えっ!」
カーヴェの顔が一瞬で真っ赤になる。勢いで言ってしまったけど、真っ赤になったカーヴェを見て私までつられて赤くなりそうだ。
「あ、そ、そういえば!仕事…そう!仕事!頑張って!」
「え?あ、ちょ!」
照れ臭くて、慌ててカーヴェの後ろに回ってその背中をぐいぐいと押すと、カーヴェはもう一度腕時計を見ると「行かないと」と、残念そうに呟いた。
「……また仕事落ち着いたら連絡してね?」
「当たり前さ。できるだけ早く終わらせられるよう頑張るよ」
じゃあ、と言ってお互い手を挙げる。カーヴェは名残惜しそうに私に背を向けると、「あ!」と大きな声を出して振り返った。
「言い忘れてた!」
「なにを?」
「僕も君が大好きだよ」
「……えっ!」
気を付けて帰るんだよ!と言うと、カーヴェは駆け足で去って行った。チラリと見えたカーヴェの耳が真っ赤だった気がするけど、気が付かなかったフリをしておこう。
あんなにも冷えていた指先は、もう気が付けば冷えてなんていなかった。むしろ、顔も体も指先も、カーヴェのせいで熱くて仕方ないよ。