カーテンコールは君と

※リオセスリの伝説任務、キャラストネタバレあります
(この注意書きは暫くしたら削除します)




「早く逃げろ」

 当時はその意味が分からなかった。数回会話をした程度の男が家に戻ってきたかと思うと、瞬く間に私の『家』は崩壊した。血塗れになり横たわる里親の二人はもう息絶えていて、なんでこんな事を、と彼を見ると、赤い水溜まりの真ん中で、虚な目でこちらを見ていた。そこからの記憶は朧げだ。思い出せない、というより思い出したくないというのが正しいだろう。その後、里親である二人の悪事が暴かれて、彼の行いは私達を救う為であったのだと知り、なぜあの時彼に手を差し伸べなかったのだろうと後悔した。悔やんでももう彼は水の下。いつ出てこれるのか、いつ会えるのかなんて分かりっこない。

 ◇

 まさかこんな事になるなんて…あの時どうしてあんな事を…きっとこんな風に罪人は思うのだろうと想像していたが、いざ自分が罪人になった今、頭の中を占めるのはやはりそんな事ばかりで、いつまで経っても止まらない昇降機に頭が痛くなってくる。ここってもう水深何メートルくらいなんだろう、と、これまたここに送られる罪人がみんな考えていそうな事を考えていると、昇降機がピタリと止まって、目の前にある扉が開いた。「降りろ」と乱暴に吐き捨てられると、受付まで案内される。こんな薄暗い太陽の光も差し込まないところで生活する事になるのかと思うと泣けてくる。溜め息を飲み込んで受付に名前と刑期が書かれた紙を差し出すと、受付の女性が私の背後を見て目を丸くした。

「……あんた、まさか…」

 恐る恐る振り返ると、そこには私よりも頭ひとつかふたつ分くらい背の高い屈強な男が立っていた。驚いて彼の顔を凝視しながら数歩後ろへと下がる。ん?でもこの人、どこかで…必死に記憶を辿っていると、目の前に立つ男も自分の顎を撫でながら私と同じように顔を顰めている。

「……ナマエ?」

「えっ、なんで私の名前……」

「やっぱりな。……ああ、良い。俺の事は思い出さない方が良いんじゃないか?」

 私の名を知る男は肩を竦めると、受付に提出した私の刑期が書かれた紙を見て目を見開いた。

「刑期、二週間?」

「……月初めに、ベランダから紙飛行機を飛ばしちゃって……」

 フォンテーヌでは月初めの三日間、飛行物体を飛ばす事が禁じられている。そんな事をうっかり忘れて、ベランダから紙飛行機を飛ばしていたら近所の厄介なおばさんに通報されてしまい、あれよあれよといううちにここに来ることになってしまった。ずっと我慢していた溜め息を一気に吐き出すと、肩を落とす私とは裏腹に、彼はふっと笑い、私の肩を労るかのようにポンと叩いた。

「相変わらずだな」

「え?」

 相変わらず?どういうこと?そう問おうと口を開きかけたが、近くを通った男性が「公爵!」とこちらを見て大きな声を出した。公爵?その男の視線は私の前に立つ男に注がれている。公爵と呼ばれた彼は声を掛けてきた男と話し出してしまった。さっきの発言の意味が分からず首を捻っていると、受付の女性がゴホンと咳払いをしたので私は慌てて手続きを再開した。

「じゃあな、ナマエちゃん。二週間なんて短い期間にもう一度会えるかは分からないが、またな」

「えっ、あ、うん!」

 ペンを走らせながら顔を上げると、公爵と呼ばれた彼は手を上げ、どこかへと去って行った。

「……誰なの?」

 一体何者なのか、そしてなぜ私を知っているのか。記憶の蓋がゆるゆると開きそうになっている。でも、なぜかそれに触れようとするとズキンと頭が痛んだ。

 ◇

「君って、ドジだってよく言われない?」

「……言われます」

 メロピデ要塞生活二日目。作業中に何もないところで滑って転んだ私は、医務室へと案内され、メリュジーヌであるという看護師長のシグウィンさんに苺柄の可愛い絆創膏を数枚手渡された。同じ柄の絆創膏が膝小僧に貼られている。まるで育ち盛りの子供のようで少し恥ずかしいけれど仕方ない。

「傷が残るといけないから軟膏を渡しておくね。これを毎日塗って、さっきの絆創膏をその上から貼るのよ?分かった?」

「…分かりました。ありがとう…」

 ぺこりと頭を下げ、医務室から出ようとすると、シグウィンさんが「待って!」と私を引き留めた。シグウィンさんは私の元へと駆け寄ってくると、服の裾を掴んでぐいぐいと引っ張ってくる。

「ねぇ、君みたいなごく普通の女の子がどうしてメロピデ要塞に?」

「……月初めに紙飛行機を飛ばしてしまって…」

 そう言うと、シグウィンさんは目を見開いた。なんだこれ、デジャヴってやつだろうか…昨日会った公爵と呼ばれていた彼もシグウィンさんと同じ反応をしていたっけ…そういえば、シグウィンさんならあの公爵の事を何か知っているかもしれない。

「シグウィンさん、公爵って何者なんですか?」

「君、公爵の事を知らないの?」

 シグウィンさんの大きな目がますます開かれる。有名人、もしくはこのメロピデ要塞の何か権力者に位置する人物なのだろうかと思っていたが、その後聞かされたシグウィンさんの話を聞いて、私の予想はあながち外れていなかった事を知った。
 メロピデ要塞のトップ、それが公爵で、名はリオセスリというらしい。そんな偉い人に話しかけられただけでも恐れ多いのに、それに対してとてもフランクな返事をしてしまったような気がする。何か気に触ったりしていないといいけれど…というか、メロピデ要塞のトップである彼が昨日収監されたばかりの私の事をなぜ知っていたんだろう。

「不思議……」

「何が不思議なんだ?」

「あら、噂をすれば公爵じゃない」

 聞き覚えのある声と、公爵という単語に椅子から飛び上がる。医務室の入り口にもたれかかってこちらを見ている公爵は、昨日と変わらない人の筈なのに、シグウィンさんから話を聞いた後だからだろうか、なんだか物凄い重圧と、恐ろしさを感じてしまう。いや、でも!と思いバタバタと公爵の側へと近寄ると、公爵は何事かとキョトンとした顔で私を見た。

「あの……昨日はごめんなさい!公爵様と知らず失礼な態度を取ってしまいました…」

 知らなかったとはいえ、ここのトップである彼の機嫌を損ね、失礼な奴だと認識され刑期が伸びたりなんてことになったら最悪だ。
 深々と頭を下げてみたは良いが、公爵はいつまで経っても何も言わない。もしかして、やっぱり許されないのだろうか…チラリと彼の顔色を確認すると、公爵は眉間に皺を寄せ、どこか複雑そうな、悲しそうな表情を浮かべていた。けれど、私の視線に気がつくと、まるで取り繕うかのようにニヤリと笑みを浮かべた。

「…来たばかりのあんたが俺のことを知らないのなんて当然だ。そう硬くならないでくれ。昨日みたいに気さくに接してくれて良い」

「いや、でも…」

「公爵が良いって言ってるんだから良いじゃない!」

 気さくに、と言われ、たじろいでいると、シグウィンさんが助け舟を出してくれた。でもそれは私に、というよりどちらかといえば公爵に出されたものだった。二人の視線が突き刺さる。はぁ、と溜め息を吐いて「分かった…」と言うと、公爵が私の頭にポンと手を乗せた。

「あんたの刑期は短い。残り少ないメロピデ要塞の生活を楽しんでくれ」

「う、うん…」

「ふふふ、公爵がここまで気にいるなんて珍し……あ!ごめん!ウチ、ちょっと出てくるわね!公爵、お留守番よろしくね!」

 時計を見た途端、シグウィンさんが医務室から飛び出す。今はお昼前。なんだろう?お昼ご飯を食べに行ったのだろうか?首を傾げて公爵の方を見ると、公爵はなぜかジッと私の顔を見ていた。

「……どうしたの?」

「いや、何でもない。……そういえば、どうしてあんたはベランダから紙飛行機なんて飛ばしていたんだ?」

「えっと…それは昔からよくしている行動、というかで…」

「行動?」

 公爵が首を傾げる。自分の行動にはここに来るまでに何度も後悔し、そして呆れ返ってきたが、改めて問われると情け無さに顔を覆いたくなる。

「法律についてすっかり忘れてたってのはさておき、もう会えない人に手紙を出したくて…でももうその人の事を朧げにしか覚えてなくて…」

「……どこにその手紙を出したら良いのか分からないって事か?」

「うん……その人、昔罪を犯したの。ここ、メロピデ要塞に入ったって当時は聞いていたけど、きっと今はもう刑期が終わってフォンテーヌのどこかにいると思う。…調べて手紙のひとつくらい出したら良いんだけど、なんだか、勇気が出なくて」

「…………どんな事を伝えたいんだ?」

 頬杖をついた公爵の質問攻めに素直に答えているが、こんな話、楽しいのだろうか。シグウィンさんがいなくなって二人きりだから何とか話題を探してくれているのかな。そんな事を考えながら、公爵から問われた『彼』に伝えたい事を頭の中に並べていく。
 
 気付けなくてごめんね。救ってくれてありがとう。きっと一人で色んなものを抱えて辛かったよね。

 考えば考えるだけ色んな言葉が溢れてくる。あのまま私があの場所にいたら一体どうなっていたのか分からない。どこかに売られ、奴隷のような生活を送っていたかもしれないし、殺されていたかもしれない。そんな未来を、自分が咎を背負い塗り潰してくれた彼に伝えたい事はやはり簡単には思い付かない。

「沢山ありすぎて言葉にはできないかも。やっぱり叶う事なら手紙を送りたいかな」

 きっと、彼を探そうと思えば探せたような気がする。でも度胸がなくて、行動に移せないだけ。そんな綺麗事を並べて情け無く笑うと、頬杖をついたまま目を伏せていた公爵の瞳が私の方を向いた。

「心当たりがあると言ったら?」

「えっ!?」

 医務室に私の声が響き渡る。慌てて口元を押さえると、公爵はなぜかバツが悪そうに頭を掻いて、息を吐き出した。

「あんたと俺が思い描いてる男が同じなら、そいつはまだメロピデ要塞にいる。……そいつの名前は分かるか?」

「うん、えっと……――」

 彼の名を口にすると、一瞬だけ、公爵の瞳が曇ったような気がした。公爵は頷くと、「どうやら当たりのようだ」と言って笑った。とっくに刑期を終えていたと思ったのに、まだ彼はここ、水の下で暮らしていたのか。半ば諦めかけていた彼へ思いを伝えるという事が、まさかここに来て実現しそうになるなんて。

「だがひとつ、条件がある」

「…条件?」

「そいつは事情があってね。直接会うことができない。だから俺から彼に手紙を渡すという事なら引き受けてやれるんだが、どうだ?」

「……も、もちろん!それで大丈夫!」

 一目だけでもと思ったが、罪人が集まる場であれもこれもと願いが叶うわけがない。ましてや私だって罪人なのだ。それに、実は少し怖かった。あの時、あの場に残って罪人となる彼を庇う事だって出来たかもしれない。いや、それが出来なくても法廷で発言をして、彼の罪を少しでも軽くする事だって出来たのに。なのに、私は何も出来なかった。そんな私を彼が恨んでいないという保証もない。もし顔を合わせて何か酷い事でも言われたら私は立ち直れないだろう。ただ一方的に手紙を押し付ける事になってしまうが、それが最善なような気がした。でも、それが最善なのは私だけで、彼にとっては迷惑かもしれない。こんなズルい事をして、良いのだろうか。舞い上がった気持ちが徐々に落ち込んでいく。

「……どうした?」

「いや、今更だけど一方的に手紙を渡すなんて、私のエゴのような気がしてきて……」

 肩を落として、薄く笑う。なんだか少し、泣きたいような、寂しい気持ちになってきた。それを悟られたくなくて、誤魔化すかのように処置道具や本が置かれたシグウィンさんの机をジッと見ていると、ガタン、と音がした。それは公爵が椅子から立ち上がった音で、公爵はスタスタと医務室の階段を登っていく。そんな公爵の行動をぼんやり眺めていると、階段を登り切ったところで公爵が振り返った。

「手紙なんてのはエゴの塊のようなもんだ。書きたい事を書けば良い」

「……」

「三日後のこの時間に俺の執務室に来てくれるか。その時に手紙を受け取ろう」

 じゃあな、と言うと公爵は医務室を去って行った。
 私がごちゃごちゃ考えたところで、公爵の言う通り、確かに手紙というものはエゴの塊なのかもしれない。「書きたい事を書けば良い」そう言った公爵の言葉が頭の中で繰り返し再生される。うん、そうだ。彼がどんな事を思うかなんて考え出したらキリがない。だって、それは彼にしか分からない事なんだから。彼にとって私は恨むべき対象かもしれないし、もう覚えてもいないかもしれない。だけど、私は彼に救われたと思っている。その事実と感謝をただ、伝えたい。

「……まずは特別許可券を集めてレターセットを買わないと…」

 椅子から立ち上がり、自分の両頬を軽く叩く。手紙を書く前に、やる事が沢山ある。公爵と約束した三日後までに、色んなことを頑張らないと。

 ◇

「これで、お願い…します…」

 あれから三日が経ち、私は公爵の執務室に居た。無論、手紙を持って。この手紙を書き終えるまでに色んな事があった。レターセットを手に入れるべく必死に特別許可券を集め、それらを揃えていざ書こうと思った矢先にペンを盗まれたり、レターセットに水を溢してしまったり…一時はどうなる事かと思ったが、何とか約束の日までに手紙を書き終える事ができて良かった。たかが三日間の事だが、とんでもなく苦労した日々の事を思い出しながら公爵に手紙を差し出す。何となく色々察してくれたのか、公爵はくすりと笑うと私から「承った」と言って手紙を受け取った。

「約束通り、手紙は渡そう。……だが、返事は来ないものだと思った方が良い」

「私の自己満足みたいなものだから。大丈夫」

 公爵は私の目を見て頷くと、執務室の大きな扉を開けてどこかへと出て行ってしまった。もしかして、もう早速渡しに行ってくれたのだろうか。何も言わずに出て行ったという事は彼は近くにいるのかな。知らないうちにこの要塞の中ですれ違っていたりして。だって、あの時からもう何年も経っているし彼の姿を私はぼんやりとしか覚えていないから、すれ違っていたとしてもきっと気が付かないだろう。記憶の糸を手繰り寄せて彼の顔を思い浮かべる。でも、思い出そうとすると、あの時の赤い水溜まりの上で佇む彼と、ただの肉塊へと成り果てた里親二人の見るに耐えない姿を思い出してしまって頭がズキズキと痛み出す。痛む頭を押さえながら少しずつ彼の顔立ちを思い出していく。同い年だというのに背が高くて、少し垂れ目で、陽に透かしたガラス玉のような綺麗な青い瞳。黒と灰色が混ざった独特な髪色…

「…………あれ?」

 それらの特徴を持った人物なら、知っているじゃないか。ガンガンと痛んでいた頭が落ち着いていく。でも、それに反して心臓が力強く脈を打ってその音が耳にまで届いてくる。もしかして、いや、まさか…とそんな言葉たちがぐるぐると頭の中を駆け巡る。落ち着く事ができず執務室を歩き回りながらその可能性について考えていると、扉が音を立てて開き、公爵が再び姿を現した。公爵は室内を徘徊する私を訝しげに見ると、近くのソファにどかりと腰掛けた。

「……渡してきたが……あんた、一体、どうしたんだ?」

 公爵はソファに座り直すと、額に汗を滲ませた私を見て首を傾げた。恐る恐る公爵の元へ近寄り、彼の顔をまじまじと観察する。やっぱり、たぶん…いや、絶対そうだ。

「……ねぇ、あなたって――」

 公爵の顔を覗き込み、『彼』の名を口にすると、公爵の大きな手が私の口元をそっと覆った。驚いて目を見開き公爵を見ると、公爵は目を伏せ、首をゆっくり横に振った。

「そいつは随分前に死んじまってな。俺の名はリオセスリってんだ」

「…………なんで、教えてくれなかったの?」

 騙されたとか、怒りを覚えたとか、そんなんじゃない。ただ、純粋な疑問だった。なぜ正体を明かしてくれなかったのか。なぜこんな回りくどい事をしたのか。執務室が静寂に包まれる。しかし、いくら待っても、公爵が口を開く事はなかった。

「………『彼』は、何て?」

 痺れを切らした私が肩を竦めてそう言うと、公爵は自分の隣をポンポンと叩いた。座れ、という事だろう。素直に従い隣に腰掛けると、公爵がぽつりと呟いた。

「…不思議な気分だ」

「不思議?」

「リオセスリである以前の俺の行いを感謝される日がくるとは思わなかった」

 公爵は感情の読めない声と表情でそう言うと、またしても何も言わなくなってしまった。
 私にとっては恩人のような公爵。でも、公爵からしたらそんな大それた事をしたとは思っていないのだろうか。
 正直、今でも心の整理がついていない。拾われた恩、育ててくれた恩を里親である二人には感じていた。仲間達を都合良く売り、そして都合良く処分していたあの人達は悪でしかない。でも、公爵が二人を殺した事で何の被害にも遭わなかった私のこの宙ぶらりんの気持ちはどうしたら良いのだろう。私はもし二人の行いを知る事ができたのなら、公爵のように行動に移せただろうか?きっと、自分が被害に遭うまで確信が持てず何もできずにいただろう。でも、公爵は違う。違和感に気付いて、機を狙い、この負の連鎖を断ち切ってくれた。彼が部外者ならただ感謝をすれば良いだけだ。だけど、彼も私と同じで二人に少なからずの恩を抱いていたのではないだろうか。なのに彼は二人を手にかけた。その決断は、身を裂く程の痛み同然だったのではないだろうか。

「リオセスリである以前の自分の事、忘れたいの?」

「……」

 公爵は何も言わない。いや、何と言おうとしているのか悩んでいるようだった。

「……忘れたいなら忘れたら良いよ。でも、私は彼に助けられた。あなたが忘れても、私は忘れないよ」

 自分の口からまさかこんな言葉がスラスラと出るとは思わなかった。私の言葉に驚いたのは私だけではなく、公爵もだったようで、公爵はふっと目を細めると、力無く笑った。彼との付き合いは短い。リオセスリである前の彼とだって挨拶をした程度のものだ。それでも、こんな笑みを浮かべる彼はきっと、長い付き合いだったとしてもなかなか見られないような、そんな悲しい笑顔だった。

「……あんたの勝手にしたら良い」

 冷たい言葉のように思えるけれど、そう言った公爵の声はどこか嬉しそうだった。
 ずしりと、肩に何かがもたれかかる。驚いて自分の肩へと視線を向けると、そこには黒と灰色が混ざったような髪色をした頭がもたれかかっていて、思わずどうかしたのかと声を発しそうになったが、俯き微動だにしない公爵の様子に私は口を噤んだ。

「………あんたの事は正直あまり覚えていない。ぼんやりした女だったってくらいの印象しかない」

「……失礼な」

「ハハ、悪いな。……あんたがここに来た時、つい声を掛けちまったが、まさか俺に手紙を出そうとしてたなんて思わなかった。手紙を渡したって事にしておけばあんたが以前の俺の事を忘れてくれるかと思ったんだがな…」

「……忘れて欲しかったの?」

「あんたからの手紙を読むまではな」

 公爵がポケットから私の手紙を取り出す。それは封が切られていて、私を執務室に残して外に出た時にでも読んだのだろう。

「あれは…まぁ、俺の人生でも最悪の出来事だ。だが、その中であんたみたいな存在を救えてたなら……」

「……悪くはない?」

「ああ」

 それだ、とでも言うかのように公爵が指を鳴らす。指を鳴らしたと同時に公爵は立ち上がり、どこかからティーセットと茶葉の入った入れ物を持ってきた。

「茶も出さずに失礼した」

「い、いいよ!大丈夫…というかこちらこそ本当にありがとう…手紙、受け取ってくれて…」

 ティーポットに公爵が茶葉を入れていく。手伝おうと立ち上がるが、手で制されてしまった。お湯が注がれて、紅茶の香りが執務室に広がっていく。ザワザワとしていた心が少しずつ落ち着いていくようだった。

「俺の為に紙飛行機飛ばしてここまで落ちてきたんだ。そりゃ受け取るさ」

「ば、馬鹿にしてるでしょ!」

「してない。嬉しいんだ」

 目を細めて柔らかな表情を浮かべた公爵がティーカップから漂う紅茶の湯気を見つめている。その横顔を見ていたらなんだか急に体が熱くなってきた。まだ紅茶に口をつけてさえいないというのに。
 嬉しいんだ、と言った公爵の言葉に胸につっかえていた何かがゆるゆると溶けていくような気がした。私の思いを書き殴った自己満足の手紙でも、公爵の心を少しだけ動かす事ができたのだと思うと嬉しかった。目くじらを立てるどころか、会った時よりも穏やかな瞳をしている公爵が、私の手紙を読んだ答えな気がした。

 ◇

 メロピデ要塞にいた二週間はあっという間だった。けれど、その短い期間の中でずっと心残りだった事を果たす事ができて、捕まるのも悪くないなと、ベランダに咲いた花々に水をやりながらくすりと笑った。
 見上げれば青い空に、太陽が浮かんでいる。あの要塞では見る事ができない景色。もう二度と、私はあそこには行かないだろう。だって紙飛行機を飛ばす必要はもう無くなったのだから。
 刑期が終わり、水の上に帰る時、公爵がわざわざお見送りに来てくれて、こんなただの女の為に公爵が!?とみんなが騒いでいたのを覚えている。「またな」と言って公爵は私の頭をくしゃりと撫でた。でも、何となく、もう彼と会う事はないような気がした。彼の拠点はメロピデ要塞で、私は水の上の人間。住むところも違えば立場も違う。
 はぁ、と口から転がり落ちた溜め息にギョッとする。心の中にぽっかり穴が空いたような、そんな気分。彼に手紙を渡して、感謝の気持ちを伝えて、私は満たされている筈なのに。ずっとずっと心残りだった事を成し遂げられたのに。そう何度も言い聞かせても、なぜだか気持ちは晴れる事はなかった。

「ごきげんよう」

 不意に掛けられた声にハッとする。地上にいるであろうその声の主の方を慌てて見ると、その姿に私は目を丸くした。

「公爵!?」

「元気にしてたかい?」

 公爵はベランダにいる私を少し眩しそうに見上げながら手を上げた。太陽の下を歩く公爵はとても新鮮で、元より綺麗だった青い瞳がキラキラと輝いて見える。なんでここに公爵が!?驚いて手から滑り落ちそうになったじょうろを慌てて持ち直すと、そんな私を見て公爵は肩を竦めて笑った。

「相変わらず、元気そうで何よりだ」

「う、うるさい!てか、なんでいるの!?」

「俺だって水の上に来る事くらいあるさ」

 そ、そうなんだ…てっきり公爵はメロピデ要塞から離れないものだと思っていた。それもそうだ。彼はあそこの管理者で、何も囚われの身というわけではないのだから。さっきまでもう会う事はないかも…と考えていた自分が何だか恥ずかしい。でも、それ以上に公爵も水の上に来る事があるという事実になぜか口元が緩んでしまう。

「……また紙飛行機でも飛ばしてたのか?」

 公爵がにやりと笑う。知ってるくせに、と、私はベランダの手すりに手をかけてとびきりの笑顔を公爵に向けた。

「もうその必要はないよ!」

 紙飛行機なら、届けたい人の元へとっくに届いているから。
 公爵は一瞬だけ目を見開くと、目をぎゅっと瞑って、くしゃりと笑った。その笑顔は、昔、初めて彼と言葉を交わした時に「よろしく」と言って笑った『彼』の笑顔のようだった。

「…ところで、俺が水の上に来たのは、とあるレディーをアフタヌーンティーに誘いに来たからなんだが……」

 眉をくいっと上に上げると、公爵は「どうだ?」と言って片手を私に向けて差し出した。
 そんなの、答えはひとつに決まってる。

「喜んで!」

 穏やかな昼下がりに、バタバタと階段をおりる私の足音と、公爵が笑う声がする。
 青い空に白い鳥が二羽ぎこちなく飛んでいる。それを見て私達は顔を見合わせて笑った。
 
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