水底に沈む

 鳥は空を羽ばたけば良いし、土竜は地中に潜れば良い。水の上が過ごしやすいのなら水の上へ、水の下が心地良いのなら水の下へ。太陽を見ない生活も悪くないと話している人がいた。うんうん、そうだよね。その話に耳を傾けて一人頷く。それでも私は未だ水の上で普通に暮らす夢を見る。まるで呪いのように。水の下に逃げ、自分を誤魔化すなと言われているようだった。

「おい」

 焦りを含んだ、けれど優しく、囁くような声が聞こえた。まるで今まで泥に呑まれていたかのように、脳が覚醒する。それと同時に呼吸は荒くなって、額からは汗が噴き出す。さっきまで見ていた夢の内容が洪水のように頭の中に流れて逃げ出したくなるような、泣きたくなるような気分になる。
 そんな私の事をうんと理解している、隣で寝ていたであろう男は、ただならぬ様子の私を見ても眉ひとつ動かす事なく、私の手を黙って握ってくれている。

「…………ごめん。起こしたね」

 ぐちゃぐちゃの感情を押し込んで、彼を気遣う言葉を何とか絞り出すと、思ったよりも私の声は掠れていた。寝起きだからだろうかと思ったが、いつもに増して私を見る彼の、リオセスリの表情が暗いような気がして、もしかして、魘されていた拍子に何か寝言をペラペラと話していたのだろうか。リオセスリは私のすぐ隣で私の顔をジッと見ている。何も言わない彼に気まずさを感じて、彼とは逆方向にそーっと体を向けようともぞもぞしていると、リオセスリがベッドの脇にあるボトルを掴んで、それを口につけた。
 こう見えて上品なところがあるリオセスリがコップに注ぐ事なくボトルを直接口をつけるなんて何事かと目を丸くしていると、リオセスリの大きな手が私の頭をそっと掴んだ。徐々に近付いてくるリオセスリの顔に、わけがわからないまま反射的に目を瞑ると、彼の冷たい唇が私の唇に触れた。急にどうしたんだろうという思いを頭の片隅に追いやりながら彼のキスを受け入れていると、リオセスリの舌が私の唇を割って入ってきて、そして何かが私の口の中に流れ込んできた。驚いて目を開けると、薄く目を開けていたであろうリオセスリの目と目が合う。何この液体?水?眉を顰める私にリオセスリは口付けながら小さく頷く。流し込まれたそれをごくりと飲み込むと、リオセスリは満足したかのように唇を離した。

「あれだけ喋っていりゃあ、喉も渇くだろう」

「……寝言は無意識に出るものだから仕方ないでしょ…」

 やっぱり寝言、うるさかったのか…としゅんとする。別に今更リオセスリ相手に寝言をむにゃむにゃ言っていたからって気にする事はない。だけど、見ていた夢の内容からして恐らく人には聞かせたくないような事だった気がする。誤魔化す事も茶化す事もせずに、暗闇の中私をジッと見つめるリオセスリから目を逸らす。
 ここはメロピデ要塞。月の光なんて入りはしない。だから夜は真っ暗で、枕元の照明を点けなければ何も見えない。だけど、ここでの生活に慣れ過ぎてしまった私も、彼も、こんな真っ暗闇でも暫くすると相手の表情くらいならば認識することができる。お世辞にも機嫌の良い表情を浮かべているわけではないリオセスリを見て、何だか恥ずかしくて、泣きたくなる。
 彼は私の過去を知っている。未だそれらに雁字搦めになって、こうして悪夢に魘されて、みっともなく喚いている私を見てリオセスリはどう思っているんだろう。良い加減、水の下での暮らしに腹を括れと思っているのかな。
 夜は人の心を不安定にする、と誰かが言っていた。じわりと滲み出した涙に、これは夜のせいだからと心の中で言い訳をした。

「……明日のデザートはイル・フロッタントだ」

「…え?そうなの?」

「好きだろ?」

 暗闇の中に優しい、私を甘やかす声が響く。イル・フロッタントは私の好物だ。何かあると水の上までリオセスリが買いに行ってくれる。きっと、明日も朝から水の上に行き、買ってきてくれるのだろうか。

「……うん、好き」

 頷いて、リオセスリを見る。イル・フロッタントも、こんな私の為に大好きなデザートを買いに行ってくれるリオセスリも。
 リオセスリが自分の隣をポンポンと叩く。そこに体を滑り込ませると、リオセスリが私の体にシーツを掛けて、シーツごと私を包み込んだ。
 冷たくなっていた体がじんわりとあたたかくなっていく。背を撫でる手はやっぱり優しくて、まるで水の上で太陽の光を浴びていた時の事を思い出す。何も言わず、何も聞いてこないリオセスリの優しさに心が落ち着いていく。ここは水の下、太陽の光なんて差し込まなくても、私にとっての太陽みたいな人がいるから、何も怖くない。今夜はもう、悪い夢は見ないような気がした。
 
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