非オタ彼氏の
クレイジーハロウィン

「倫太郎、目閉じて」

素直に瞼を閉じれば、そっと頬に添えられる千尋の手。

「ん。次は口、少しだけ開けて?」

そうして今度は顎を少しだけ持ち上げられる。

「こっち、向いて」

最後に伏せがちだった目線を上げればじっと覗き込むように俺を見る千尋。すぐにでもキスできそうなくらい近い距離感で、眉根を寄せる千尋の顔は正直ちょっとぐっとくる。だけどそれを抑えて黙って俺も千尋の目を見返せば、感極まって息を詰まらせたような声を上げてからゴツンと大きな音を立ててカーペットに倒れ込んだ。

「っむり〜!!」
「……ねえ今頭ぶつけたよね、何してんの」

呆れている俺なんか気にも留めず、きゃあきゃあ1人で騒いでごろごろ転がる千尋を見てため息をついた。本当、こういうところ見るとマジでオタクだなって思う。


きっかけは千尋の『トリックオアトリート』っていう一言だった。珍しく部活が休みの今日も千尋の部屋に遊びに来ていて―俺の彼女はインドア派だから出かけるよりも部屋で一緒にのんびり過ごすことが多い―、さて今日は何のアニメ見るのかななんて思っていたら千尋がやけに大量のお菓子を持って部屋に戻ってきた。いつもなら適当に飲み物とちょっとつまめるようなポテチとか焼き菓子とか持ってきてくれたり、千尋の家に行く前に2人でどこかに寄って買ったケーキとか食べたりするんだけど。なんか今日多くない?って聞いたらそのお決まりの言葉が返ってきた。そっか、ハロウィン近いんだっけって思い出して納得した。オタクはイベント事に弱いの!って言ってたのいつだったけ。

『残念。お菓子ないよ』
『知っとる』
『じゃあいたずらするしかないね?』

そう言って含んだような返事をして試すように千尋を見た。俺としてはそういう意味で言ったし、千尋もそういう下心ありきで俺とハロウィンをしようって言ってくれてるもんだと思ってた。……この時点で俺はオタクというものをまだ完全に理解してなかったんだなって今なら思う。甘かった、俺の彼女はガチ勢のオタクだって忘れてた。

『……ええの?いたずら、しても』
『いいよ?千尋の好きにしてみてよ』
『……ほんまに?』
『本当』

言いながら手を伸ばして目の奥に期待をちらつかせた千尋の頬に添えて、顔と顔も近づいて。あと数センチでキスできるって時にぱあっと急に大きな笑顔を向けてから千尋はちょっと待っとって!!と言って立ち上がった。突然虚しくなった俺の右手は置いてけぼり。え、と思った時には千尋はクローゼットからぽいぽいと何かを取り出して固まる俺の前に積み上げていく。そして最後にドン、と置かれたのはいつだったか千尋が披露してくれた自慢のメイクボックス。

『倫太郎!コスプレ!しよ!!』
『……は?』
『お菓子持ってないんやろ?せやったらいたずらや。コスプレしよ!!』

心配いらへん、私が全部やったるし!!はよこれ着替えてきて、ウィッグ袋にいれっぱやったで整えなあかんからちょうどええし


そうして話は冒頭に戻る。他人が千尋の言ってることだけを聞いていたらなんかちょっとエロいことしてんじゃないかって思うだろうけど、実際はよくわかんない衣装着せられた彼氏が彼女に言われるがままコスプレ用のメイクをされているだけの話。色気の欠片もない、むしろ訳がわからない構図でしかない。
一通り騒ぎ終えたのか、千尋が起き上がってまたじっと俺を見た。今の俺は千尋の好きな漫画の、千尋の推しの恰好をしているから多分、というか確実にフィルターかけて俺を見てる。角名倫太郎、ではなく愛してやまない推しであるそのキャラクターとして千尋の目には映ってる。その証拠にいつもアニメとか漫画とか見て所謂“悶えてる”っていう時のオタクの顔をしてるから絶対そう。……たしかに、立派ないたずらだよ。

「はぁ……推しやわ……倫太郎めっちゃ似合う……!!」
「全っ然嬉しくないんだけど」
「メイク完璧やわ……原作からアニメから見返して細部研究した甲斐あったわ……ウィッグセットも上手くいったなあ……天才ちゃう……?」
「……もしかして新しくウィッグ買ったとか言わないよね?」
「買ったで?」

推しのコスプレしてもらうんに手抜きとかありえへん


こっちからしたらそこまでの熱意をハロウィンのいたずらに懸ける方がありえないんですけど。最初からこの流れに持ち込む気でいたなって今更気が付いてもう一回小さくため息を吐いた。一方俺の彼女は自分の両頬に手を当ててまた感嘆のため息を吐いて幸せそうな顔をしていた。惚れた弱みでその顔はやっぱり可愛いなとかちょっと思うけど、でもこの状況っていうのが複雑なところで。
惚けていた千尋は次の瞬間にははっとしてあかん!と叫んでから携帯を取り出してぱしゃぱしゃ撮り始めた。千尋の推しはなんとなく把握していて、確かこのキャラは無口で表情も乏しいタイプだったはず。そのせいなのか何にもしていないでされるがままの俺をそのまま写真に収めるのに必死だ。呆れた目で見やればまた大きな声を上げてシャッターを切る。……逆効果だったみたい。

「ツショ撮ろ!!」
「本気で言ってんの……?」
「ええやんか!おねがい!!仮装やと思って!!」
「……絶対誰にも見せないって約束守れる?」
「守れる!!がんばる!!」
「がんばるって言ってるあたりマジで不安なんだけど」
「推しに推しやってもらったら自慢したくなるん当たり前やん!?」
「待って、オタクアカに載せたりしないよね?それしたら流石に怒るよ?」
「したいところやけど、さすがにせえへんよ!?倫太郎、レイヤーやないし顔出しはやばいやろ?」

したいところって言ってるんだけど、大丈夫かよ。本音出てるってば。隣に来ておねがい、おねがいともはや懇願に近いような頼み込みをしてくる千尋を横目で見てから諦めがついた。ここで断っても多分千尋は折れない。推しのためならあの手この手でなんとかしようとしてくるに決まってる。それに俺はどうしたって千尋には弱いから。

「絶対見せない、外部に出さない、ここだけで終わりにするって約束守れるならいいよ」
「守ります!!」

それから気の済むまで自分の推しの恰好をした俺との写真を撮ってからようやく解放された時には千尋の部屋に来てからすでに2時間くらい経っていた。折角ふたりっきりでいられる貴重な時間なのにここまでの俺と言えば7割呆れ、2割諦め、残りの1割で可愛いなとかそんな感情を持ち合わせていたくらい。目の前で満足気に撮ったばかりの写真を見返す千尋をじっと見て思いつく。ハロウィンって言うなら、俺だって別に同じこと聞いてもいいわけだよね、って。

「千尋、トリックオアトリート」
「ん?あぁ、そうやった!一緒にお菓子食べよ思っていっぱい買ってあんねん」

積み上げられたお菓子の山から一つ適当に取って大きな音を立てて開けた袋から、チョコレートを一粒手渡された。とりあえず今はそれを貰っておいてすぐに封を開けて口の中に放り込んだ。何も見ずに食べたそれはトリュフだったらしい、舌の上で簡単に溶けてなくなったからもう一度お馴染みの言葉を続ける。千尋はさっきと同じように、だけど今度は俺の両手でも収まりきらないくらいのお菓子をどんどんと乗せていった。

「すごい、倫太郎の手やっぱおっきいなあ。いっぱい乗るわ」
「これはあとで食べるわ」
「せやなあ、ちょっとずつ一緒に食べよ。今日何観よかな、やっぱ推しやってもらってるから推しの出てる回見直そうかなあ」

相変わらず幸せそうに、というよりデレデレだらしなく笑いながらテレビのリモコンを取ろうと動いた千尋の手を掴んでそのまま思い切り自分の方に引き寄せた。さっきまで手のひらいっぱいだったお菓子は音もなく床に散らばる。その代わり腕の中にはちょっと変わった、でも俺にとっては可愛くて大事な彼女。


「そろそろ大人しくいたずらされてよ」


驚く千尋に隙を与えずキスすれば、そのうち鼻にかかったような小さな声が耳に響いた。ようやく聞けた千尋の甘ったるいそれに、今度は俺が満足する番だった。わざと深くてしつこいキスで千尋に迫って、そのまま覆いかぶさるように一緒に倒れ込む。目一杯それを楽しんでから最後に大きくリップ音をたてて離してやった。そっと目を開ければもう千尋は女の顔をしていた。赤く染まった頬も、切なそうに俺を見る眼も、さっきとは全然違う。―俺が、そうさせてる。その事実がうれしいと思うし、もっと言うならどうしようもなく興奮する。

「トリックオアトリート」
「……そんなん言うて、下世話ないたずらしか考えてないやんか」
「一応聞いておこうかと思って。だってハロウィンなんでしょ?」
「うっさいわ……」

倫太郎のアホ


そう言いながらも自分から唇を寄せて来たんだから千尋も乗り気じゃん、っていう言葉はキスと一緒に飲み込んだ。付き合って、こういうことをするようになって暫く経つのに、いまだに遠慮がちなのがかわいいなって思う。でもいい機会だから、今日は任せてみようかな。そんな悪戯心ともう少し進んだ関係になりたい気持ちを同時に芽生えさせたところだったのに、やっぱり俺の彼女はどこまでもオタクだった。

「あかん……今私めっちゃどきどきしとるわ……夢女やわ……!!」
「夢女……?」
「今の二次創作で使えるから創作してるオタ友に忘れんうちに報告さして」
「ねえだからなんでこの状況でそれが言えるの?どういう心境なわけ?」
「需要ここにあんねやから供給元には言っておきたいやん。携帯、携帯」
「本当毎回懲りずに雰囲気ぶち壊しにくるよね」
「だって推しに押し倒される私やばい、夢女極まっとる」
「……もうこれ全部脱ぐしウィッグも外すわ」
「あー!!やめてや!私の最高傑作!!」

結局、俺が思い描く恋人同士のハロウィンができたのはそれから数十分後のこと。




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