よこみちサブウェイ



 何かがおかしいと思ったのだ。

 車体の青色がいつもより明るいような気がするし、車内広告も見たことのないものばかり。
 それでもその時間にそのホームに滑り込んできた電車だというだけで、自分も含めた乗客たちはほとんど条件反射で乗り込んでしまったのだった。


 早朝の地下鉄の車内はそれほど混んでいない。乗客の大半は、ラッシュに巻き込まれるのを嫌う自分と同じような会社員だった。

 スーツ姿の男と若い女性の間に身体を捩じ込むようにしてどうにか座席を確保すると、途端に眠気が襲う。
 向かいの席の若いサラリーマンも頭を後ろへ倒すようにして口を開けて眠り込んでいるし、斜め前で立っている中年男性は吊革にぶら下がるような状態で舟を漕いでいた。都会では誰もが疲れている。朝だというのに。

 憂鬱な気分になりながら、周囲に倣って足りない睡眠を補おうと目を閉じた。


 列車が減速し、停止する。今どの駅だろう?降りる駅は随分先なので、まだ寝ていてもいいはずだ……
 停車の小さな衝撃。しかしその後に、ドアの開くお馴染みの音が続かない。不思議に感じて目を開けると、そこは駅ではなかった。地下鉄の線路の暗闇の中に、停車していたのだ。

 事故か、機器の故障か何かか?
 周囲の乗客も訝し気だ。こういう場合、意味がないとわかっていても皆同じような行動を取ってしまうもので、一様にきょろきょろと辺りを見回している。露骨に迷惑そうな表情を浮かべる者も多い。
 状況を説明するアナウンスもなく、蛍光灯が煌々と照らす車内に空調の唸りと乗客のざわめきが漂う。列車の轟音で普段は気づかないが、地下というのは不気味に静かだ。

 次第に恐怖が場を支配し始めた頃、スピーカーからどこか間の抜けた男の声が響いた。

「業務連絡、業務連絡。楽隊、配置についてくださぁい。給仕部隊は待機位置へ〜」

 この非常事態に、客への説明そっちのけで、業務連絡?ガクタイ?給仕?

 訝る間もなく、どこからかヴァイオリンを小脇に抱えた男が登場し、続いてフルートを携えた男、最後にトイピアノを恭しくささげ持った女性が現れた。いずれも若く、盛装している。こんな一団が紛れ込んでいたら、もっと早く気付きそうなものなのに。

 三人は深々と一礼すると、それぞれに楽器を構え、目配せでタイミングを合わせて演奏し始めた。
 呆気に取られる乗客の間を、軽やかなモーツァルトの調べが流れる。トイピアノのオルゴールめいた澄んだ音色は、愛らしい長調の曲にぴったりだった。

 それだけではない。いつの間に現れたのか、湯気を立てるマグカップをいくつも載せたトレイを手に、目の前でギャルソン姿の若い男が微笑んでいた。

「都会の朝に、安らぎを。特製のラテです。後ほどサンドイッチのサービスもありますので」

 都会の朝に、安らぎを……。
 操られるようにトレイのラテに手を伸ばしながら口の中で呟く。
 一体何の標語だ?
 それにしても、何と澄んだ瞳だろう。何とまろやかな笑窪だろう。何と蠱惑的な唇。声。

 マグカップの中身をひと口啜る。途端に口の中に広がるフォームミルクの優しい舌触り、スチームミルクの濃厚な甘み、丁寧に抽出されたエスプレッソの心地好い苦味と香り。

 地下道の暗闇に息づくこの列車で、一体何が起こっているのか。こちらもいつの間にか手渡されていた温かいベーグルサンドにかぶりつきながら、目眩を覚える。

軽やかな三重奏にのせて、唐突にアナウンスが入る。それは語りかけるような口調でこう宣った。

「皆様、お早うございます。日々の仕事に追われ、お疲れではありませんか?こんな早朝から出勤し、夜中まで残業、帰って眠るだけ。それが果たして人間らしい生活と言えるでしょうか。私共、都市生活環境向上委員会は皆様に人間らしい心と生活を取り戻して頂くための活動を行っております。どうか音楽に耳を傾け、コーヒーを味わって……」云々。

 アナウンスを聞いて我に返ったように、四十がらみの男が喚き出す。

「待ってくれ、冗談じゃない。どういうことだ、この電車はいつ動くんだ?」

 つられるように何人もが不満と困惑の声を上げる。都会の人間は他人のせいで予定を狂わされるのが大嫌いだ。

 大きなスポーツバッグを抱えたジャージ姿の女子高生が「朝練に遅れちゃう。困るんだけど」と給仕部隊のひとりに声をかけた。さっきの、あのアポロンのごとき美青年だ。

 彼は微笑みを崩さず、「きみ、朝御飯は?」と問いかける。

「まだだけど。駅のコンビニで買っていくし」

 その答えに僅かに眉を寄せ、彼は「それは良くない。朝はね、温かいものを、ゆっくり落ち着いて食べるべきだ」と有無を言わせぬ口調で言うと、ラテとベーグルを差し出した。

 女子高生は「うーん」と首を傾げていたが、諦めたのかマグカップに口を付けた。途端、顔が綻ぶ。

「美味しい」

 ね、と頷く彼のバックに花が咲き乱れて見える。

 しかし、彼女のように素直な客ばかりではなかった。

 洒落た細身のスーツを着込み、シルバーフレームのスタイリッシュな眼鏡を掛けた若い男が、女子高生から離れて空いたマグを回収して歩いていたあの彼の前に立ちはだかる。

「君たち、都市環境委員会だか何だか知らないが、これは立派なテロ行為だろう。こんな地下で乗客を監禁して、頼んでもいないのに妙なサービスを押し付けて」

 口の達者な男だ。しかし彼は怯まず穏やかに言い返す。

「いいえ。皆さんに危険はありません。お金も頂きません。都会の朝に、安らぎを。皆さんに上質な音楽と食事とともに、落ち着いた朝のひとときを過ごして頂きたいのです」

 こちらの口調も滑らかだ。彼の純粋な瞳。あれは狂信者の瞳だったのだ。今更ながらに思い当たるがもう遅い。彼の魔力に捕われてしまった。

「善意の押し売りはただの迷惑行為だ。大体落ち着いた朝のひとときとやらをここで過ごしたところで、次の乗り換えではこの遅れのせいでラッシュに捕まることになるんだぞ。どうしてくれるんだ!」

 至極もっともである。が、男の激昂に合わせるようにバックではフルートとヴァイオリンの音色が絡み合って高揚してゆき、その上をトイピアノの優雅な旋律が転がる。どうにも間抜けだった。よく見れば男の鼻の下にはフォームミルクの白い泡までこびりついている。

 また流暢に言い返され、ついに男はベーグルの包み紙をかなぐり捨て(ちゃっかり完食しているじゃないか)、彼に掴み掛からんとした。

 身体が勝手に動いた。咄嗟に男の腕を掴み、後ろへ捻り上げる。中二の頃、格闘マンガに憧れて練習した技がこんなところで役に立つとは。

「ご馳走さま。やっぱり朝はラテだよね」

 彼のトレイに空のマグカップを置き、にっこり微笑んでみせる。

「はい。でも次は、和食党の方にも対応できるようにしたいと思います」
眩しい笑顔が返ってきた。死んでもいい。

 そこで音楽が余韻を残して静かに終わり、スピーカーから

「次の停車駅は××、××でございます」

 と平時と変わらぬアナウンスが流れた。それを合図に潮が引くように楽隊と給仕たちは撤退を始める。

 彼を引き止めたくて、しかし何と言っていいかわからずに、「頑張って」と月並みな言葉を掛けた。

「はい!」と答えた彼の顔には並々ならぬ決意が満ち溢れていた。

 よくわからない理想に燃える美しい人を切なく見送ると、一度大きく揺れた車両は何事もなかったかのように再び走り出した。

 腕時計を見て舌打ちをする者、鞄から手帳を出してスケジュールを確認する者、腕を組み、目を閉じて寝る体勢に入る者。車内は瞬く間に日常を取り戻そうとしていた。

 その中でただひとり、魂を抜かれたように呆けている。

「都会の朝に、安らぎを」

 呟くと隣の女性がちらりとこちらを見、すぐに目を逸らした。


Fin.


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