夜汽車幻想
人だ。
それに近づくにつれ、穂村は確信する。
闇に浮かび上がる人影は橋の欄干にもたれ、何をするでもなくぼんやりと前方を眺めている。
こんな夜中に、どぶ川を眺めてひとりで何を? 余計なお節介と分かっていても、放っておけない性分だ。
「あの」
思い切って声を掛ける。人影は男のようだった。若くもなければ年寄りでもない。
「見て」
落ち着いた、静かな声が返ってきた。視線が前方を示している。 穂村がそちらへ顔を向けた瞬間――
「あっ」
光の帯だ。 前方の中学校の体育館の後ろから黄金色があふれだす。心臓の鼓動にも似た規則正しいとどろき。 穂村がさっき降りた最終列車だった。ゆき違いの関係で、ここの駅での停車時間が異常に長い。それがいま、目の前を横切っているのだった。
「綺麗でしょう」
なぜか得意げに男が言う。
「きれいだ」
あの中で、部活帰りの汗臭い少年が携帯電話をいじっている。勤め帰りの人々はくたびれ果てて居眠りをしている。街で仲間と遊んだ帰りの、化粧の濃い田舎の少女達が噂話に興じている。 ざわめき、溜め息、イヤフォンの音漏れ、汗と香水と煙草の匂い。 綺麗なことばかりではない、雑然とした日常を乗せて目の前を流れてゆく光の帯は、しかしとても静かで幻想的だった。お馴染みの喧騒が、今は遠い。 電車の轟音も踏み切りの警報機も、今は遠く遠く――光の残像だけが静かにとどまっていた。 その残像が、滲んでぼやけてゆく。その場に蹲ってしまいたくなる。穂村は泣いていた。
「疲れた、かも」 思えば日常というのは雑音に満ちている。忙しなくて、騒がしくて、決して立ち止まれない。今日も1日、くたくたになるまでその中を早足でくぐり抜けてきた。
「大丈夫?」
心配して声を掛けたはずが、こちらが心配されてしまっている。情けない。
「自分が疲れていることにも気付かないほど頑張ってはだめだよ、穂村さん」 「え」
名前を呼ばれ、穂村は思わず顔を上げた。そこで初めて相手の顔を認識する。
「わ、お隣さんこんばんは!」 驚き過ぎて普通に挨拶をしてしまった。何をしているのかいまいちわからない、アパートの隣人。
「こんばんは。あなたいつも終電で帰ってきて、朝も随分早く出掛けるでしょう。からだを壊さないかと心配していました」
どぎまぎする。何をしているのかわからない隣人は、隣の物音に耳をそばだてて穂村の身体の心配をしていたりしたのだろうか。
「さ、帰りましょう」 穂村を促し、隣人は先に立って歩き出す。
ふたりの下を、水面をぬらぬらと光らせながらどぶ川が流れてゆく。
Fin.
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