ことばつむぎ
「……はい、はい、ではそれにつきましては、修正したものを後日送らさせていただきます。はい。失礼致します」
携帯電話を上着のポケットにしまいながら、友人は「悪い悪い」と片手を上げて苦笑した。休日まで仕事の電話とは大変だ。
「送らさせていただきます、ね」 「へ?」 「『美しくない。正しくない』。」 「え、あれ?そうだっけ。敬語って難しいよな」
「……ってあいつなら言う」 途端、友人は微妙な表情になった。そうか、こいつはぼくたちのことを知っていたのだったか。
「……あー、そういうの、変に気にする奴だったっけ。前に『全然いいよ』って言ったら怒られた」
いかにも彼らしい。だけどそんな風に拘るくせに「もう何年かしたら『全然いい』も正式な用法として広辞苑に載るかもな」なんて呟くことがあるのも、ぼくは知っている。
正しさを知っている彼。その正しさが永遠でないことも知っている彼。それでも正しさを愛している彼。
「うつるんだよね、あの言い方。一人でテレビ観ててもつい『美しくない』とか言っちゃうの」
苦笑いで言うと、友人も同じ笑みを返してきた。
「強烈だもんな。小さい姪っ子のピアノの発表会に真剣にコメントしてたり」
「『曲の構成を考えて弾くべきだ。最後に冒頭の主題が戻る意味を』。4才児の演奏にね」
妙な拘りが多いのだ。
とかくどんな些細なことに対しても、彼なりの基準に照らしてきっちりと評価しないと気が済まないのである。 そして何についても、誰に対しても、滑稽なほど公正であろうとする。
疲れるだろうに。生きにくいだろうに。
――『この詩、知ってる?』
それでも「美しい」ものに出会った彼は、大切なものをそっと手渡すように、気まぐれにぼくに教えてくれる。 美しいものを前にした彼の居ずまいを正すような身じろぎを、至福の溜め息をぼくは知っている。
そしてぼくは、バラエティー番組に向かって知らず「美しくない」なんて呟いてしまう自分を見つけるのだ。いつの間にか彼の目で世界を見ている自分。
彼ならこう思うだろう。こう言うだろう。そんな風に。
とはいえ。
とはいえ、「きみならこう思うんじゃないか」と彼に確かめるすべはない。 彼自信の口からそうした言葉を聞くことはもはやない。
彼の独特の美意識に基づく評価も、口にするはずの言葉も、横断歩道の真ん中の彼に向かって感動的なほど真っ直ぐに突っ込んできた飲酒運転の中年男の薄汚れたワゴンが永遠に奪い去ってしまった。
この先ずっと、「彼ならば」という仮定のもとでしか語られ得ない彼の言葉。
「おれはね」と話し出す真摯な響きを、心から美しいと感じていたのに。ぼくの語彙なんてたかが知れていて、あったはずの「彼ならば」をすべて表すことなどできやしない。
閉ざされてしまった彼のライブラリ。その豊饒。
圧倒的なきみの不在に気付かされる度、打ちのめされるような心地です。
……なんて、陳腐だとけなすだろうか。新しい言葉を嫌うくせに、手垢にまみれた言い回しにも顔をしかめるきみ。 いや、ただ困った風に「バカ」なんて言うんだろうか。自分に向けられた言葉には、笑ってしまうほど不器用な反応しかできないきみ。
……なんでもいい。
声がききたい。
fin.
→あとがき
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