悲鳴(2)
頑丈な造りの扉が音もなく左右に開く。 途端、町で経験したのとは比較にならないほどの強風が顔を打った。吹き込んだ風が壁を打ち、建物全体が共鳴する。眩しさと強風で目を開けていられない。彼は僕の手を自身の腕へ導いた。
「目を開けて。踏み外します」
言われ、どうにか薄目を開けた。日常的に人が立ち入る場所ではないのだろう、外の下り階段は驚くほど幅が狭く、風圧を逃がすためかメッシュ状になっていた。彼の腕と手摺にすがるようにしながら一歩一歩、下へ降りる。空中に立っているようで目眩がする。あらゆる方向から容赦なく吹き付ける風に、手摺がひゅうひゅうごうごうと「鳴いて」いた。
爪先でそろそろと探るようにしながら下ってゆくと、あるところで突然、嘘のように風が穏やかになった。
「ここが……」 口の中が乾いて、目が痛い。 「ここが『吹き溜まり』です」
その一帯は、なだらかな窪地になっていた。その地形のためか、或いは風向きが関係しているのか、そこには風に飛ばされてきたあらゆるものが「溜まって」いる。 建造物や機械の残骸、金属の密閉容器に詰められた有害廃棄物、家具、動物の死骸。白ちゃけた景色の中、ところどころで色をとどめているのは比較的最近飛来したものなのだろう。
「帽子でしたか」 「うん」 「どのような?」 「白い、つばの広い帽子だ。黄色の花の飾りが付いていた」
僕が妻に贈ったものだ。それを被ってはしゃいでいた彼女を今でもよく憶えている。
薄くて頑丈な繊維でできた手袋を嵌めると、彼はその場にしゃがみ込んでがらくたの山をかき分け始めた。無言でそれに倣う。
わかっている。20年前の失せ物が、今更見つかる筈もない。手の動きに従って、白っぽい灰のようなものが舞い上がった。吸い込めば命に関わるだろう。しかし彼も僕も手を止めなかった。
かつては。彼が言う。
「かつては土が、人間を養ってくれていたというのは本当でしょうか」 「僕の祖父母が子供の時分には、まだ畑から食物が取れたと聞くよ」
種を蒔き、苗木を植えて世話をしてやれば、大地と天とが食物を与えてくれた。土壌から養分が海へと流れ込み、人間は海からもその恵みを得ることができたという。 祖父母の幼かった時代というと、それほど昔のことでもない。記録するツールは豊富にあるはずなのに、古き良き時代は人類の記憶から、不自然な程に薄れつつあった。
「信じられないな……」
灰に似た有毒の砂を掌に掬い、彼は呟く。もはや大地は人間になにひとつ与えてはくれない。
「人間は遠からず地上から消えるだろう」 「そうですね。でも、……それだけだ」
人類滅亡後の地上では、苛烈な環境に適応できた少ない生物種を祖先とする新たな生態系が生じるだろう。人類が滅びたとて、それは長い地球の歴史の中でほんの一瞬栄華を極めたひとつの種が、その終焉を迎えただけのこと。そんな考えが、現在では主流になっていた。 それはもはや思想などではない。自らの生すらも相対化してしまうような考えなど、単なる生の放棄にほかならない。理性だの尊厳だのを持ち出して、いつだって自らを他の種から隔てようと模索してきた人類の思想の歴史の、これが結末だというのか。
「それだけ。……でも、」
彼はむきになったように、がらくたを掻き回し続けた。視界が白く煙る。
「おれも帽子を見つけたいです。あなたの奥様の帽子がここに埋もれていることさえ忘れ去られてしまう前に」
悲痛な彼の声。呼応するように、橋の「鳴き声」が遠く響く。
堪らなかった。彼を抱き締めた。涙に濡れた灰色の瞳に、確かな生の輝きを見た。
どれほど諦念の蔓延する世界にあっても、消し去りきれない自我が叫ぶのだ。我ここにあり、もの思いてあり。地球の歴史なんてわけのわからないものと並べられて、塵芥扱いされるなんて御免だ。 僕と彼は抵抗する。地球とも種の存続とも関係なく、極めて個人的な理由のために、がらくたの山を掘り続けることで。
「気付きましたか?」 しゃくり上げながら彼が言う。
「あの町の、おれが最後の人間です」
誰もいなくとも風車は回る。しかし彼がいなくなったら、誰がそれを見上げるのだろう。
消えてしまいたくない。
同調し、混じりあう。どちらの思考かわからなかった。
不毛の大地はどこまでも続き、風車は朽ち果てるまで回り、橋は鳴き、人類はじき亡ぶ。
そんな時、彷徨うものが最期に辿り着く「吹き溜まり」で、僕と彼は抱き合って泣いていた。 或いは、存在していた。
Fin.
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