悲鳴(1)
高く低く、笛の音にも似た哀しげな音が響く。 この音を以前にも聞いているはずだ。しかしこんなにも、哀切な音色だったろうか。
足を止めた僕に気付き、数歩先を行く彼が振り返った。
「ああ、この音ですか。これは……」 「橋が『鳴いて』いるんだったっけ」 「ご存じでしたか」 「うん。でも前は、ここまで大きな音じゃなかったように思うが」 「……風は年々強くなっています」
この空中都市に張り巡らされた通路である「橋」の欄干は空洞になっており、そこを風が吹き抜けると何とも形容し難い不思議な音を立てて鳴く。
気候は不安定で、同じ季節は二度は巡ってこない。今では世界中がそんな有り様だ。 それを嘆くでもなく目の前の青年は、橋の「鳴き声」に耳を澄ますようにいっとき目を閉じ、また先に立って歩き出した。
「ここです」
やがて円筒形をした、町でもひときわ大きな建物の前で彼は足を止めた。 ここから見上げてもその全体は確認できないが、これは巨大な風車になっている。町全体にエネルギーを送り出す、言わば町の心臓である。 「ここが『吹き溜まり』?」 「この裏手です。中を抜けて行きましょう」
「吹き溜まり」へ案内してほしい。 案内所の明るいオフィスでそう伝えると、そのただひとりの構成員であるらしい青年は落ち着いた声で「失せ物ですか」と問うた。
「ええ」 「『吹き溜まり』の様子ならこちらのモニタでご覧になれますよ。下りるのは危険ですから」 「直接見たいんだが」
一応そう訴えてみる。 これで相手が渋るようなら、それ以上食い下がるつもりはなかった。親切そうなこの青年に面倒を掛けるのは本意ではない。
「どんな物をお探しですか」 「帽子です。……妻の。以前この町を訪ねたときに飛ばされてしまって」 あれほど風には気を付けろと言ったのに。
「どれくらい前です?」
「20年」
彼は唇を微かに開いたままこちらを見詰めた。灰色の瞳。何度か瞬くと、
「ご案内します」
唇は閉じられ、そこに静かな笑みが浮かんだ。
風車の内部は薄暗く、殆ど空洞になっていた。内壁に沿って螺旋状に作られた通路を彼の後について歩く。
「足元に気を付けて」 「うん……何もないんだな、中は」
もっと様々な仕掛けが詰まっているのかと思った。そんな感想を漏らした僕を、彼は旧い人間と笑うでもなく、 「効率よくできていて、大掛かりな装置は必要ないみたいです。機構は全てあの中に」
そう言って建物の中心を貫く柱を指さした。 それなりの太さはあるのだろうが、建物全体の大きさに比して蜘蛛の糸のように頼りなく見える。けれどあれが、この町を支えているのだ。
土壌の汚染によって人間が暮らせる土地は減少し、こうした空中都市が各地に建設された。 しかし、母なる大地から離れた人間は、種としての最期を悟ったかのように急速に勢いを失くしていた。子供が産まれなくなり、人口はこの半世紀で40パーセント近く減少した。莫大なエネルギーを傾けて空中に快適な居住空間を作り上げたのを最後に、科学技術も医学も文化も芸術も進歩の足を止めてしまっていた。あたかも土から引き抜かれた植物が見る間に萎れてゆくように。
「こっちです」
いつの間にか先程の入り口とは反対側の扉の前まで来ていた。こちらを振り返った彼が、手にしていた袋から顔全体を覆う防護マスクと長い手袋を取り出して手渡す。手袋だけを受け取った。
「そういう不細工なものは要らない」 「……着けないと長くはいられませんよ」 「うん」
彼は困ったように手にしたマスクをぶらぶら揺らし、結局それを元通り袋へしまった。
「出ましょう。風に、気を付けて」
→2
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