カーテン・フォール
開店時間になったばかりのバーは空いていた。奥まったテーブル席で翠(みどり)と向かい合う。 ここで飲むときにはいつもこの席だった。初めて連れてきた晩、翠は店内を珍しそうに見回して「大人になったみたい」とはしゃいでいた。
今、俯いた彼の表情は読めない。怒っているのか、泣いているのか、それとも無表情なのか。
「……どうして」
ようやく聞こえてきた言葉は頼りなくふるえて消えた。
「ごめん……」 馬鹿の一つ覚えのように謝罪の言葉を繰り返す。
「違う、どうしてほんとうのことなんて話したの」 顔を上げた彼は思ったほど悲痛な表情ではなくて、安堵と寂しさを同時に覚えた。
「それが……好きな相手に対するけじめだと、……せめてもの誠実さだと、思ったから。今更だけれど」
彼を騙していた。私には妻がいて、子どももいる。ちっとも彼のものなんかではなかったのに、きみだけだと戯言を言った。何度も何度も。 軽いお付き合いのつもりだったし、それならば甘い言葉は関係を円滑にしてくれる。翠をここまで愛するようになるなんて、浅はかな1年前の私にどうして予想できただろう。嘘を重ねて翠を裏切り続けることが、苦しくて仕方なくなった。
「ねぇ、地球はほんとうに丸いのかな」
唐突な翠の言葉。
「いきなり何を……」 「どうだろう」 「……丸いんだろう」 「どうして?」
こんなときに、何を言い出すのだろう。
「地球一周した男だっている。球体で、しかも回っているから、朝とか夜とか、時差やなんかが生まれるんじゃないか」 十分な説明とは思えないが、それでも真面目に答えてやった。いい加減にあしらわれたり蔑ろにされたと感じると、彼は子どものように怒り出す。扱いづらいが、そういうところも愛しかった。
「NASAが人工太陽で全地球人を騙してるのかも」 「……何のメリットがあって」
「それだよ」
翠が若者らしい傲慢さでこちらを指差す。理屈を捏ねるのが好きな彼の、お馴染みの仕草だ。
「そうやってありそうもないことを排除していって、最終的に一番それらしいことを信じるわけだ、おれたちは。太陽系なんてほんとうに存在するのか、人体はほんとうに無数の細胞から成っているのか、コラーゲンはほんとうに肌にいいのか……」
「何が言いたいんだ」 できるだけ穏やかに問う。いつものように。あまりにもいつも通りの会話に、まるで翠と元に戻れたかのような錯覚に陥る。こうしていつまでも、彼の披露する理屈を聞いていてやりたい。
「おれたちは確かめようがない。だから一番ほんとうらしい嘘をくれる奴の言うことを信じる。それがもしかしたら、世界規模の壮大なフィクションかも知れなくても、それでひとまず安心できる。つまり、」
伏せた睫毛がふるえている。ちいさな深呼吸。
「……つまり、誠実さなんて糞食らえってこと」
投げ捨てるようにそう言い切り、グラスの中身を煽る。 彼の言葉が氷の塊のように、からだの中心をしんと冷やしながら胸へ沈んでゆく。そう、結局は自分への言い訳でしかなかった。自分が楽になるためだけの誠実さなんて、まったく糞食らえだ。
「ねぇ、すごくほんとうらしい嘘なら、それはほんとうと一緒なんだよ」 翠の声にはすがるような響きすらあった。はっとする。いつもの虚勢も張れないほどにきみは、私の浅はかな嘘を必要としてくれていたのだろうか。
「すまない」 もう一度詫びた。騙したことだけではなく、その嘘すらも守りきれなかった臆病を。
「でもあなたの嘘は、ちっともほんとうらしくなかったけどね」 翠はそっと私の左手を取り、薬指のあたりを撫でた。いつもさりげなく隠していたつもりだった、かすかな日灼けの跡。
「穴だらけの嘘んこの世界でも、おれは幸せだったよ」
そう言い捨て、私の手を丁寧に元の位置に戻すと、彼は身軽にスツールから飛び下りた。 ひらひらと手を振ると、引き止める間もなくバーの重たい扉を押し開け、夕闇の街へ消えてゆく。
酒が似合うようになった。体つきも随分しっかりしてきた。最後に見たのは、若者らしい潔さの下にいろいろなものを押し込めた表情だった。 断片を掻き集めてみても、彼は戻らない。
薄暗いバーの奥まったテーブル席には、嘘の世界の残骸だけが残されていた。
Fin.
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