はじまり

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あ、また逃げられた。

ニューヨーク本社からやってきた人の好さそうな小男・ネルソン氏は、さっきから店内の男に見境なく声を掛けては逃げられていた。
片言で「コンニチワ」などと話しかける愛嬌たっぷりの様子に初めこそ皆がにこやかに対応するのだが、それに続くあまりにも露骨で強引なスキンシップに引いてしまうのだ。その繰り返し。
彼のその様子には「ご乱心」という言葉がぴったりだった。

ここはどちらかといえば上品なゲイ・バーで、あまりに露骨な振舞いは嫌われる。しかし、そのことをそれとなく注意できるほどの高度な英会話技術は生憎持ち合わせていない。「もう時間も遅いですから……」なんて言ってみても、彼は聞く耳を持たないのだった。


それにしても「お仲間」というのは、国籍の違いを超えてわかってしまうものなのだろうか?

彼が焦げ茶色の目をくりくりさせて共犯者の笑みを浮かべ、「そのテの店」に連れて行けと求めてきたときには本当に驚いて、変な汗までかいた。

もっと外国人の集まる店とか、そういう場所を選べばよかったのだろうか。いや、そんな店は知らないが。


困り果てていると、「ここ、いい?」と流暢な英語が聞こえてきた。

目を上げると、さっきの相手に逃げられたまま空いていたネルソン氏の隣のスツールに、おれと同年代くらいの男が体を滑り込ませたところだった。

「こんばんは。東京には、お仕事で?」
「そう。フィリップだ」
「フミオです。フミって呼んで」

フミオと名乗った男は、さっきまで彼が追いかけ回していたような若い男でも美形でもなかったが、親しげに声を掛けられてネルソン氏は嬉しそうにしている。

「そっちは?」
「ムツキ。仕事のパートナーだ」

急に矛先がこちらに向いて焦る。

「ムツキ?フミです。よろしく」
「ああ……こちらこそ」

英語で挨拶を交わしたあと、まるで挨拶の一部のように笑顔のまま、今度は日本語で「大変だね」と言われた。
その瞬間、悟る。
彼は――フミは、ネルソン氏に興味を持って近づいて来たのではない。困っているおれを見兼ねて、わざわざ助けてくれたんだ。


ネルソン氏とフミは顔を寄せ合い、楽しげに話している。ネルソン氏は今までになく寛いだ表情を見せていた。

そんな素振りは見せなかったが、異国で思うように話が通じないストレスを味わっていたのかも知れない。仕事で困らないだけの語学力は身に付けているつもりだが、雑談を楽しむ相手として、おれでは不足だったのだろう。
さっきまでの「ご乱心」ぶりも、そうしたストレスのためだと考えられないこともない。

「隣の家の三姉妹が可愛がってくれて」
「だからちょっと女の子っぽいんだな、きみの英語は」

漏れ聞こえてくる話によるとフミは13歳までのほとんどの期間をアメリカで過ごしたらしい。
確かに、努力で身につけた英語ではない。劣等感を感じる必要はないのだと自分に言い聞かせる。

仕事相手を完全にフミに任せ、ロックのウィスキーを舐める。不意にこちらに話題が振られることがあっても、彼が巧みにフォローしてくれた。



ネルソン氏をタクシーに乗せ、フミとふたりきりになる。
彼がしつこく誘われるのではないかと危惧したが、どうやらネルソン氏はお喋りで満足してくれたらしい。

「ええと……ありがとう、フミ。助かった」

右手を差し出すと、握り返しながら彼は笑って
「日本語でいいよ、ムツキ」
と言った。

英語も握手も無意識だった。少し照れる。

「あんたをうちの会社に欲しいくらいだ。営業に向いてるよ」

おれが会話に置いていかれないようフォローしてくれる視野の広さ、親しみを込めながらも敬意を忘れない絶妙な話術。話題も豊富だった。頭の回転が速いのだろう。

「ありがと」
余計な謙遜はせず簡潔にそう言って笑うフミを、もっと知りたいと思った。

「飲み直さないか?お礼に奢るから」
ここからは駆け引きだ。

「うーん……もう飲めないかも。あんまり強くないんだ」

見込みなしってことか。それとも――

「酒はもういいんなら……」

「セックスでも?」

そう言ったのはフミだったが、その声に大して熱は込もっていなかった。
魅力的な申し出ではあったが、そうしてしまえば彼とはこれっきりになる予感がした。それではつまらない。

「……いや、明日の夜は空いてる?よければ、飯でも」

フミはほっとしたように「うん」と答え、名刺をくれた。
何の会社か分からない社名に、「八尾 史生」の文字。肩書きもない。


まあ、それは追々。
空白を埋めるための時間は、きっとこれから沢山ある。

長い親密な付き合いの始まりを予感しながら、もう一度握手を交わした。


おわり。


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