うし料理2
Nothing comes from nothing...
日差しが少しずつ夕方の色になり、何となく内省的な気持ちで歌いながら仕事用のメールボックスをチェックする。会社のホームページを任せているWebデザイナーさんのほか、数件の新着メッセージがあった。 どれも急用ではないけれど、後回しにしない方がいいだろう。あ、その前に洗濯物を取り込むべきか……。
キーボードに手を置いたまま思案していると、玄関のドアが開く音がした。睦月だ。 どれほど重要な仕事も、帰宅した同居人に「お帰り」を言わない理由にはならない。人生の優先順位を見失ってはいけないのだ。
「お帰り、睦月」
自室から顔を出すと、大きな袋を両手にぶら下げた睦月が居間のドアを足で開けたところだった。 袋の1つからはワインとおぼしきボトルとバゲットの長い紙袋が覗いている。今日は何かの記念日だったろうか。
睦月は「ただいま」と答えるとキッチンへ直行し、テーブルで荷解きにかかる。 精肉店の包み。人参、玉ねぎ、じゃが芋、マッシュルーム、南瓜。トマトピュレの瓶、クリームチーズのまるいパック。エトセトラ。睦月は無駄のない動作でそれらをあるべき場所へ振り分けると、間髪を入れずに手を洗い、エプロンを着け、肉の包みを開けて(上等そうなかたまりの牛肉だ)下拵えにかかった。
「もう夕飯の支度?」 まだ4時過ぎだ。驚いて訊ねると、ミルでがりがりと白胡椒を挽きながら、睦月はうん、とだけ答えた。
牛肉の処理が終わると野菜にかかる。よく洗って皮を剥いた人参やじゃが芋をことさら丁寧に切り、横の大ぶりの鉢に投げ込んでゆく。玉ねぎの半量は、煮込んだらとろけてなくなりそうなほど繊細な薄切り。もう半量は形を残すぐらいの櫛形に。無我の境地って感じ。
纏わり付くときっと叱られるので、洗濯物を畳みつつ後ろから作業を眺めた。 てきぱきと立ち働く姿は美しい。機能的で、淀みない。優秀なプログラムが組み込まれているみたいに。
丹念に灰汁を掬って蓋をし、煮込み鍋の方が一段落すると、休む間もなく今度は南瓜を取り出した。
そんな風にして睦月は働き続け、ぼくもそれにつられるように畳んだ洗濯物をしまい、浴室と洗面所をきれいにし、メールに返信し、今日出勤しているはずの仲間に進めておいてほしい小さな仕事を頼み、ストレッチをして勤勉に過ごした。
夜、専用のクロスで磨いたグラスをテーブルに置くと、見事な洋風のディナーが完成した。
生ハムと玉ねぎとプチトマトのマリネ、南瓜のクリームチーズ和えレーズン入り、メインのビーフシチュー、そして軽く焼いて温めたバゲット。
半年にいっぺん見るかどうかの蒸し器まで登場した。そう、食後に南瓜プリンがあるのだ。こちらもそう頻繁には使わないソースパンまで持ち出して、カラメルソースを作っていたのもちゃんと見た。
かちりとグラスを合わせ、中身を口に含む。睦月が選んできた赤ワインは少しだけスパイスのような香りがあって、でも軽やかだ。
「今日はいったいどうしたの?」
ずっと気になっていたことを訊ねる。 睦月は苦笑いを浮かべてシチューを啜ると、「八つ当たり?」となぜか疑問符付きで答えた。
「お前に当たるよりは料理に当たった方が生産的だろ」
全くだ。スプーンでつつくとほろほろと崩れるほど柔らかく煮えた牛肉を口に運ぶ。幸せ。
手の込んだご馳走を作ることでストレス解消って、僕にはわからない考え方だけれど。明日からまたやっていくためのエネルギーを、睦月が取り戻せているといい。
「こんな八つ当たりなら大歓迎」
「そりゃよかった」
気前よくワインのお代わりを注いでくれながら、睦月は今日初めての心からの笑顔を見せた。
彼の八つ当たりの所産であるビーフシチューはその後数日、最終的には初挑戦のオムライスのソースとなって、心とお腹を満たしてくれたのだった。
おわり。
[top]
|