誰も知らない
TOO PERSONAL matter
「でね、その店員さんが睦月だったってわけ」 「へぇ、そりゃドラマチックだ」
史生が得意気に語り、その同僚が相槌を打つ。 年末の、がやがやと騒がしい居酒屋の一角で、同居人の勤める会社のメンバー数人とテーブルを囲んでいた。史生の隣で、代表の矢本は呆れ顔だ。
「じゃあ睦月くんて、前は販売の仕事してたの?」 「してません」 「え、でも」
不思議そうな同僚に向かって矢本は、「作り話だよ、フミの」とそっけなく言う。
そう、何故か史生は、知り合いに嘘の馴れ初め話を聞かせるという遊びが大のお気に入りだった。酔っ払っている時は勿論、素面の時でさえも、何パターンもある話の中から選りすぐって嬉々として語る。
そして今日のように種明かしをすることもあればしないこともある。つまり誤認したままの知人もいるわけで。
「何で変な嘘つくかなー」
帰り道、やや危なっかしい足取りで隣を歩く同居人に問えば、けろりとした顔で、「だって」と宣う。
「だって面白くて罪のない嘘じゃない? 他人のごく私的な事情がドラマチックだろうがそうでなかろうが、ホントだろうが嘘だろうが、聞いてる人の生活には1ミリも影響ないんだもん」
立て板に水。彼が喋るのに合わせて白い息が立ち上っては消える。
「それはそうだけど。でも、事実も結構ドラマチックだと思うけどな」
何せ、ゲイ・バーで窮地に陥っていたおれを、流暢な英語を駆使して彼が助けてくれたのだ(こう要約してしまうと、何か全く違う話に聞こえるが)。
「うん、でもそれは僕と睦月の話だから。他の人は知らなくていい」
やけにきっぱりと言い放ち、フミは歩調を速めた。そんなに速く歩いたら酔いが回る。
「別にドラマチックでもないし」 「そうか?」 「好みのタイプだったから声掛けただけ」 「ミスターネルソンが?」 「バカ、睦月がだよ」 「なんだ」
それじゃあ毎夜、東京中の酒場で飽くことなく繰り返される儀式のひとつに過ぎなかったわけだ。パターンAの変形ってとこ。
「恋バナなんて消費されるだけだよ、事実でも作り話でも、所詮は他人の事情だし。だから僕と睦月だけ知ってればいいの」
男の恋人と暮らしていることを、職場の誰にも打ち明けたことはない。同僚に堂々と紹介してくれる史生に対して後ろめたい思いがないでもなかったので、少しだけ救われた。
「ただ持っておけばいいんだよ。恋は秘めるものだ。でも睦月のこと自慢したくなっちゃう。どうしよう。カギ開けて」 「鍵?」
気付けばマンションのエントランスに立っていた。なにか可愛いことを言っていた同居人は両手をモスグリーンのダッフルコートのポケットに突っ込んだまま、顎でインタフォンを示す。 その全身には、断固として両手を寒気に晒すまいとする意志が漲っている。仕方なく鞄を探って鍵を取り出し、自動ドアを開けてやった。
「寒い寒い寒い」
小走りでエレベーターの前まで進み、急かすようにこちらを振り返る。
「自分で押せ」 「あー!」
ポケットから無理やり右手を引っこ抜くと、冷えた「▲」のボタンに押し付けてやった。ドアが静かに左右へ開く。
握った手を引いて、狭い空間へ閉じ込める。 そこで起こることを、誰も知らなくていい。
おわり。
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