天上の恋1

An Affair


ちいさな恋をすることがある。

大抵は、「あ、いいな」と思う程度で、それ以上は進展しない。まず何より、相手が同じ性的指向の持ち主とは限らないし(人口比率から言うとそうでない確率の方が圧倒的に高い)、新たに恋愛関係を築くためには時間も気力も必要だ。相手を眺めてはあれこれとただ思っているだけの時が、結局は一番幸せ。

今でもよく行くコーヒーショップの店員さんのひとりに、そんな風に惹かれていた時期がある。

はじめはただ、感じのいい子だな、と思っていた。決してそっぽを向いたまま客に挨拶なんてしないし、マニュアル通りの決まり文句を言うのにも、語尾をいい加減にフェイドアウトさせたりはしない。

すらりと背が高くて、制服のエプロンがよく似合う。落ち着いたブラウンの髪はすっきり短く、垂れ目が人懐こい感じ。学生風だから、アルバイトだろうか。

頼んだ飲み物を待つ間、気づいたら彼を観察するようになっていた。

外回りの途中で店に立ち寄ったある日。
バリスタに注文を通して手早く釣り銭を用意する彼をいつものように見ていると、何と突然真正面から視線がかち合ってしまった。
好意の視線に気づかれてしまったのだろうか。もし何か言われたらどうかわそう、と要らぬ心配をしていると、

「ふみ先生」

随分懐かしい呼び名で彼に呼び掛けられて面食らう。

「あの、N高で先生に……あ、もう先生じゃないのか、教えてもらってた、佐山です」

サヤマ、サヤマ……う、出てこない。目が泳ぐのが自分でもわかった。

「えっと……」

「あ、やっぱ憶えてないですよね、すいません」

「あの、……ごめん。でも声掛けてもらえて嬉しい、ほんとうに」

会話を終わらせたくなくて必死で言葉を繋ぐ。そこで遠慮がちに「ダブル・エスプレッソお待たせいたしました」と声が掛かった。
デミタスカップを差し出してくれながら、女性のバリスタがサヤマくんに「休憩入っていいよ」と告げた。


「ふみ先生じぃっとこっち見てるから、もしかして憶えててくれたのかなぁと」

エプロンを外したサヤマくんが向かいの席で照れたように頬を掻く。

「ごめん、ただ、素敵なひとだと思って」

よく考えたら教師をしていたのはもう何年も前の話で、顔と名前をはっきり思い出せる生徒なんてほとんどいない。憶えていなかったことについては開き直ることにした。もう教師ではない、という解放感が口を滑らかにする。

「『素敵なひと』なんて生まれて初めて言われた」
サヤマくんは目をまるくする。

「初めてが僕みたいなので申し訳ない。僕のこと、気づいてたの?」

「初めて店で見かけたときから気づいてた。全然変わらないもん、ふみ先生」

「先生」なんてやめてほしい。……いや、でもやっぱりちょっといいかも、なんて。

「ありがと。ごめん、ほんと人の顔とか憶えるの苦手で……」

「いえ、個人的に話したことってなかったし。先生って大変ですよね、40人近くいるクラスをいくつも担当するんだから」

40対1。そう、その重圧も、教師でいるのが辛くなった原因のひとつだ。教壇に立てば80の目がこちらに向けられ、80の耳が僕の言葉を待っている。足がすくむような心地に2年間、結局慣れることはなかった。

「ええと、サヤマ……」
「太郎、です」
「タロウくん」

なんだか感動してしまう。
さっきまでは「いつもいる素敵な店員さん」だった彼が、僕を知っていてくれて、目の前で「タロウくん」になって笑っている。

「笑わないんだ」
「え?」
「名前。太郎って言うとよく珍しがられたり笑われたりするから」
「珍しい名前なの?」

海外生活が長いせいで、僕はみんなが共有している「当たり前」感覚のようなものに疎かったりする。日本語に不自由はないけれど、こういうこととなるとガイジン気分だ。

「うーん、最近はあんまりないでしょ」
「そうなんだ……」

タロウ、珍しい名前。覚えておこう。その予備知識があったら、もしかして彼のこと、憶えていられたのかな。

「先生ってフシギ」
タロウくんが笑う。目尻の笑い皺が可愛い。

「ね、『先生』はやめてよ」

もうお互い、教師でも生徒でもないのだから。

「じゃあ、」
少し考えると、彼は真っ直ぐに僕の目を見て言った。

「史生……さん?」

うわ、うわ、うわ……!
顔が熱い。鼓動が跳ね上がる。何だかよくわからないが涙まで滲んできた。
デミタスカップに残っていた苦い液体を飲み干し、仕事に戻らないと、と言い訳をして、逃げるように店を飛び出した。



「おいフミ、苦しいんだけど」

その晩、気付いたら睦月に後ろから抱きついてぎゅうぎゅうと首を絞めていた。

「どうしよう、睦月」
「まず離してくれ」

恋、してしまった。

「オマエはいつも楽しそうでいいよな……」

無理矢理腕から脱け出した睦月がぼやく。
そう、恋の初めは、苦しくって、切なくって、死ぬほど……楽しい。



驚いたことに、太郎くんと僕とは、それから少しずつ「進展」していた。

ふたりで食事やお酒を楽しむようになった。彼はストレートのはずなのに(だからこそ、かも知れないが)酔ったふりをして手を握ったり軽いハグをしても全く嫌がらなかった。

彼は昨年大学を卒業し、今はアルバイトをしながら教員採用試験に向けて勉強中。教員免許を取っても、職にあり付くのはまた難しい。

「きっといい先生になるね、たろくんは」
「そうかなぁ。史生さんは、どうして辞めちゃったの?」
「実は生徒指導の村山先生と、不倫して揉めちゃって」
「嘘!」
「嘘だよ。ちょっといいなぁって思ってただけ」
教師にそんな暇はない。村山先生、どうしてるかなぁ。

「びっくりさせないでくださいよ。……いいなって、あのおっかない先生が?」
「同僚に怒鳴ったりはしなかったよ」

教務室ではにこにことよく笑う人だった。教師と生徒としてしか出会えないなんて、不幸だ。

「ほんとはね、ただしんどくなって。ほら、進路相談とかされるでしょ? 求められたら知ったような顔でアドバイスだってするけど、それに責任なんて持てないよって思っちゃって」
興味も、というのは元生徒の前では黙っておく。
「……向いてなかったんだろうね、結局」

太郎くんは考え込むような表情でファジー・ネーブルを啜った。最近の男の子って、こういう落ち着いたバーで恥ずかしがりもせずこういう可愛いの、頼んじゃうんだなぁ。可愛いなぁ。

「いい先生だったと思うけどな、ふみセンセ」
「そう?」
「授業、解りやすくて面白かったし。脱線してお喋りしてると思ったら実は重要なポイントだったり。そういうのって意外と忘れないから」

こんなにちゃんと、聞いてくれていた生徒もいたんだ。短かった教員生活が初めて報われたような気がした。

「……嬉しい」
照れて思わず俯いてしまった顔を上げると、すぐ目の前に、小さなテーブル越しに身を乗り出すようにした太郎くんのまっ黒な瞳が揺れていた。

え、と思う間もなく、ごく軽くだが唇がふれ合う。

そこまでの「進展」なんて夢にも思っていなかった頭が混乱する。そのくせ、貪欲にもっともっと、と求める自分がいた。

アルコールがいきなり回ったかのように、心臓が早鐘を打ち、全身がきゅうっと熱くなる。


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