-61〈完〉-

「寒くない? もう行こうよ」

 慶吾が遠慮がちに声を掛けたが、墓石の前にしゃがみ込んだたまおには聞こえていないようだった。

 年が明けてしばらく経ったある日、國彦と慶吾とたまおは沼沢の墓参りに来ていた。たまおは墓というものを知らなかったらしい。かつての主人が眠っているというその場所の陰気で寂しい空気に驚いたのか、悄然としてしまっている。
 「こんなとこに、さいちいるの? つめたくないの」と聞いたたまおに、國彦は何も言ってやれなかった。死者は冷たいとか寂しいといったことは感じない、などと簡単に言ってしまうことはできなかった。その土の下に沼沢が「いる」のかどうかも、國彦にはよく分からない。

 世間は早々と沼沢を忘れ去りつつあった。問題の論文は取り下げられ、同じテーマで書かれた沼沢の著書もひっそりと絶版になった。文学部では、副学部長を務めていた女性教授が学部長となって、目前に控えた入試の準備に追われている。

 引ったくりの実行犯として、アメフト部の部員2人が逮捕された。間抜けなことに、引ったくった鞄に入っていた被害者のノートパソコンを部室に放置していたのである。このことは大きく報道され、大学には問い合わせの電話が殺到した。
 しかし、他の嫌がらせについてはとうとう犯人が見つからず、引ったくりとの関連性についても断定には至らなかった。そして――沼沢の息子、誠一の名前は、どこからも出てこなかった。

 あかねが個人的に調べたところによれば、誠一は正確には部のOBではないらしい。ただ、一部の部員を使って若手のライバル研究者に嫌がらせをさせ、その見返りとして女子高生を斡旋していたということだった。しかも、部員は彼女らに複数で強姦紛いのことまでしていたのだという。部員たちが決して誠一の名前を出さなかったのには、こうした裏事情があったらしい。

 「たかが研究のためにそこまでする?」と慶吾は呆れていたが、その「たかが」研究のために沼沢は命を落としたのである。自らも身を置く学界が、決して綺麗で正しいばかりの場所ではないのだと國彦は改めて思い知らされた。


「たまおちゃん」

 後ろから包み込むように、慶吾がたまおを抱き締めていた。たまおは綺麗に磨かれた花崗岩のつるりとした表面に、熱を分け与えようとするかのようにじっと手を当てている。

「帰ろう、たまお」

 國彦が肩を叩いて促すと、たまおはのろのろと顔を上げた。

「その石は沼沢さんじゃない。おれたちが沼沢さんを思い出すための、よすがのようなものだから」

 わかったようなわからないような顔で、それでも國彦が軽く手を引いてやるとたまおは素直に立ち上がった。

「また来よう」

 慶吾が反対側の手を取り、ゆっくりと歩き出す。何度も振り返りながら、たまおはとことこついてきた。
 1月の墓地は寒々として、春はまだ遠い。しかし生きている者に、それは必ずおとずれる。

 握る手に力が込められるのを感じ、國彦は小さな手を優しく握り返した。

「國彦さん、ヨスガってなに」

 慶吾の暢気な声が響く。
 その同じ言葉がひととひととの繋がりも意味するということを思い出して、國彦は微笑んだのだった。


おわり。

(2010/07/24)


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