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「なにかいてるの」
机に向かって一心不乱に書き物をする沼沢を、ポチは寝不足で腫れた目をしきりに擦りながら不思議そうに覗き込んだ。沼沢は答えず、ひたすら便箋にペンを走らせる。難しい字はわからないものの、主人の手元から次々に生まれる黒ぐろとした筆跡を、ポチは感心しながら眺めていた。
「ポチ」
やがて筆を擱(お)いた沼沢が振り返る。顔色が悪く、目もとにはくっきりと青黒い隈が見えたが、その表情にはどこか安堵したような色があった。床に座り込んでうとうとしかけていたポチは耳をぴくりと動かし、つと顔を上げた。
「頼みがある」
そう言って沼沢は丁寧に封をした手紙を差し出した。ポチは緊張しながらそれを受け取る。
「これを大学に持っていって、誰か信用の置ける人に渡してほしいんだ」 「わたす」 「そう。大切な手紙だ。誠一と、それから都築には決して渡さないで」 「せーいちにわたさない。つづきにわたさない」
ポチは一生懸命に復唱した。
「この手紙を隠してしまおうとする悪い奴に渡してはいけない」 「わるいやつにわたさない」
口調こそしっかりしていたが、沼沢の目は虚ろに濁っていた。封筒を握り締めて何度も頷くポチも、寝不足と疲労で朦朧としている。
「ポチ、ちゃんとする」 「約束だよ」 「やくそく」
それから1時間ほどかけて沼沢は、伸びていた無精髭をきれいにあたり、風呂で身を清め、新しい服に着替え、散らかっていた室内を整えた。ポチはその間、落ち着かなげに主人のまわりをうろうろしていた。
「さいち、それなに」
とうとう物置からロープを持ち出した沼沢に、ポチは不安そうに纏わり付く。
「ポチ、……側にいてくれるか」
ここ数日見せたことのなかった穏やかな笑みを浮かべる沼沢に、ポチはわけもわからず必死で頷いた。
「ごめんよ、怖いんだ」
これからポチに対してしようとしている残酷な仕打ちに、沼沢はふるえた。あたたかな身体を摺り寄せてくるポチを撫でてやりながら、書斎のドアノブにロープを取り付けた。
それがどのような結果をもたらすことになるか、ポチにもわかったのかも知れない。沼沢がロープの輪に首を通す段になって、必死で止め始めた。
「さいち、それやだ、やだ」
常に従順だったポチの初めての反抗に、沼沢はどこか場違いな、しみじみとした哀しみを感じた。
「ポチがする、かわりにポチがそれするから、さいちはしないで」
身代わりまで申し出たポチを最後にひと撫でしてから、沼沢は厳しい声を作って言う。
「止めるな」
縋り付くポチがびくりと固まった。主人の命令には逆らえない。けっして。
ポチの手の中で、言われたとおり押さえ込んでいた沼沢の両手はしかし、生にしがみつこうとするいかなる反応も見せなかった。大きく見開かれたポチの両目いっぱいにその最期の姿を映しながら、沼沢の肉体はしずかに、不可逆的な変化を遂げていった。
(2010/07/10)
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