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それでも数日は、沼沢もまだ落ち着いていた。普段どおり出勤し、業務をこなし、そうしながら疑惑の論文に関する資料は銀行の貸金庫に預けた。じきに大学側から事実関係の確認があり、正式な調査が始まるのだろうと思いながらも、まだ実感が湧かなかった。
そんな折、沼沢の著書を何作か出版した出版者から連絡があった。 自社の評判を気にして、どうにか不正を無かったことにはできないかと泣きついてきた編集者を、沼沢は不愉快な気分で一喝すると一方的に通話を切った。直後、また電話が鳴る。 しつこくするなと怒鳴りつけようと受話器を取ったが、予想に反して聞こえてきたのは後輩研究者である都築の声だった。
『誠一君が会いに来ました』 「誠一が?」 『その……例の論文について、告発は事実なのかと』 「……それで」 『あの、どのようになさるおつもりですか』 「どのようにって……」 『認めるんですか』
事実なのだから認めるも認めないもない。今更取り繕えるなどとは、沼沢は思っていなかった。
「認めたら困るか」 『そういうことではなく……』 「心配しなくても君にまで被害は及ぶまいよ。学界を追われるとでも思っているのか」 『いえ、その』
都築が心配したのは思い詰めた様子だった沼沢の息子と沼沢自身のこれからのことだったのだが、如何せん、タイミングが悪かった。会って話したいという都築の申し出も忙しいと一蹴し、沼沢は再び受話器を叩き付けた。電話線も抜く。
翌日には研究室内が何者かによって荒らされた。資料を片っ端から引き出して調べた跡があった。大方、コンピュータの中身も見たのだろう。問題の論文関連の資料は貸金庫に預けたとはいえ、実際に惨状を目の当たりにすると、沼沢はみっともなく膝が震え出すのを止められなかった。 犯人は自宅の書斎から研究室の鍵を持ち去った息子でしかあり得ない。いや、都築か? 出版者の人間か? 葬り去るべき資料が見当たらないとなったら、次はどうするのだろうか。
沼沢がおかしくなり出したのはこの頃からだった。急遽調査の必要が生じたと偽の計画書をでっち上げ、海外出張に行くと言って自宅に引きこもってしまったのである。
玄関や裏口のドアに不釣合いなほど頑丈な錠前を取り付け、窓という窓を釘付けにし、頑として外へ出ようとしない沼沢をポチは不思議に思ったが、それよりも主人が常に家に居ることが嬉しかった。四六時中沼沢について回り、擦り寄って甘えた。沼沢も存分に彼を可愛がった。
ポチの存在がなければ、沼沢はもっと早くに限界を迎えていただろう。しかし、所詮は早いか遅いかの違いでしかなかった。限界は、やはり訪れた。
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*長らく更新ストップしてしまって申し訳ありませんでした。ちゃんとお断りしておけばよかったですね… ここからは、ラストまでできる限りノンストップで参りたいと思います!
(2010/07/08)
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