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「これ、ありがとうございました」
デスクで頬杖をついてぼんやりしていた國彦にあかねが差し出したのは、國彦が個人的に貸し出していた、経済理論に関する古い原典版の論文集だった。
「もう読んだの?」 「せんせぇが仰ってた第二講だけですけど」
それにしたって、50ページ近くもあるドイツ語の講義録だ。読みこなすにはかなりの時間を要しただろう。
「熱心だなぁ」 「腹立つくらい難解でしたけどね〜」
色褪せた布張りの装丁に似つかわしくない、華やかなあかねの爪が目に入る。國彦は前々から気になっていたことを訊ねた。
「それ、自分でやってるの?」 「ネイルサロンですよぉ。不器用なんですあたし」 「ネイルサロン? そんなところがあるのか……」 「やだセンセ、オジサンみたい〜」 「おじさんですよ。……きれいだな」
國彦はあかねの手を取り、まじまじと眺めた。白を基調に、寒色系の色で大小様々な花模様が緻密に描き込まれている。5本の長い爪は全て違う柄になっていて、ところどころにラインストーンが輝いていた。
「センセ? 大槻せんせー? セクハラですよぉ」 「ああ、失礼」
そのままぼうっとしていた國彦は、あかねに呼ばれて我に返る。慌てて手を離した。
「訴えないでくださいね。職が失くなる」 「あは、訴えませんよぉ。センセ、ゲイだし」 「そうそう」
下らないやりとりをしながらも、國彦は心ここにあらず、といった状態だった。慶吾のことも、家にひとり残してきたたまおのことも気に掛かる。普段から少食のたまおは、今朝は更に食欲がなかった。昼食も作って置いてきたが、果たして食べてくれただろうか。
「昨日はあんまりあっさりカミングアウトされちゃったんでびっくりしましたけど。ちゃんとお誕生日祝ってあげました?」
悪気はないのだろうが今最も触れられたくない話題を振られ、國彦はげんなりした。
(2010/04/24)
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