(あ)
気づいたときにはもう電車の扉が閉まっていて、彼女は改札への階段を登り始めていた。
彼女が落としたキーホルダーを拾って、自分の鞄の内ポケットへ入れる。小さな熊のマスコットだった。
(まあ、明日も同じ電車やろ)
毎朝同じ電車に乗っている彼女と話をしたことはない。ただ、なぜ彼女がこの時間に乗っているのか気になってはいた。白石はテニス部の朝練のため早めの電車に乗っている。あまりに早いので学生はほとんどいない。そんな中彼女は時に単語帳を開き、時に小説を読みながらぼんやりと電車に揺られていた。
(これをきっかけにちょっとは喋れたらええねんけどな)
やはり次の日も彼女は同じ電車に乗っていた。昨日まで鞄にぶら下がっていたキーホルダーもない。白石は自分の鞄に手を入れ、マスコット部分を掴みそれを取り出した。
「なあ」
「え、あ、はい」
「これ、自分のやんな?」
「…ああっ!」
訝し気な顔をしていた彼女にキーホルダーを見せると、驚いたように鞄を凝視していた。
「昨日電車降りるとき落としていっとったで。気づかへんかったん?」
「気づかなかったです…」
「無頓着やなあ。まあええわ、ほい」
「すみません、ありがとうございます」
彼女がキーホルダーを鞄につけるのを見ながら、口を開く。
「毎朝同じ電車やんなあ。なんでこない早うから乗っとるん?朝練?」
「学校で勉強してるんです。家じゃやる気起きないから」
成る程、と思う。もの静かそうな空気はとても運動部に入っているようには見えなかった。
「ほんなら3年なん?」
「はい」
「俺もや。せやから敬語いらんで」
「わ、わかった」
そこまで話したところで彼女がいつも降りている駅のアナウンスが流れた。彼女はそれを聞き少し肩からずり落ちていた鞄をかけ直す。それからこちらを見上げ少し笑った。
「キーホルダー本当にありがとう!じゃあね」
彼女が出たところでドアが閉まる。小さく手を振ってくれたので手をあげて返した。
(明日は名前聞かなあかんな)
電車通学に初めて感謝したかもしれない。