おかしい
おかしい。
リゾートプールが併設されたデッキの上。トリコ達の後ろを歩きながらココは眉を顰めた。
同じ様にトリコ達の後を行くサニーがココの横で陽射しが強いだの、前は暑苦しいだの何かをぼやいても、総て生返事で返してしまう。右手に持っているドリンクカップから伸びるストローを銜える。
おかしい。思えば思う程、眉間に皺が寄って行く。
出発と同時に平地を抜けた客馬は、行く先に見えた大海原を滑らかに進んでいた。汽笛が時折警告を含ませて鳴る以外、一定の速度を忠実に守るギガホースの走行は人の喧騒に直ぐ掻き消される程静かだ。
世界をぐるりと繋ぐグルメ馬車専用線路、通称ワールドコネクト。その先も後ろも、今は空と海に挟まれる様に、丸い水平線の先へと細く伸びている。空は晴れ渡り海風は気持ちいい。客馬を囲むオーシャンブルーもクルージングと違い水飛沫ひとつ無く穏やか。
それなのに。
ココは仏頂面のままカップの中身をストローで吸い上げた。ラージサイズのドリンクカップを満たすクラッシュアイスの冷気は表面に水滴を蓄え始める。喉を潤す瑞々しいフルーツジュースは適度に冷たく申し分無い。
少し前にジュースカウンターで受け取ったドリンクを飲みながら歩くのは些か品の無い行為かもしれない。けれど、ココにそれを指摘する人はいない。口に銜えているストローの先を噛んだ所で、誰も諌めない。
ココはその秀麗な眉根に皺を寄せ続け、ただデッキを進む自身の足と過ぎて行く床を見つめていた。小松と歓談を交えて歩くトリコの大きな影が総ての色合いを濃くしている。
ジャケットのポケットに差し込んでいる手が持つモバイルを、きつく握りしめる。一瞬、着信のバイブレーションが起こったかと思い力を弛めたけど、ココの勘違いだった。ポケットの中でモバイルは静かにしている。思わずストローから口を離し、落胆の息を吐いた。やっぱり、
「い、ココ聞いたかよ!松の奴おかしくね?」
「そ、そんな事無いですよ!ねえココさ、」
「おかしい」
あ。と、気付いた時には遅かった。いつの間にかトリコから小松を奪って会話に花を咲かせていたサニーがココに話を振っていた。 顔を上げればプールサイドを過ぎ、船の側面、屋根の付いたデッキに来ていた事を知る。目前に広がる大海原を背景に、ぽかん。と呆気顔の二人と目が合う。
「あ、すまない。そう言う意味じゃ…」
咄嗟に弁解を試みた。けれどどうやら微妙に意味が繋がってしまっていたらしい。
サニーは意気揚々と、「おま、即答とかひでーし!」言ってげらげら笑うし、小松は顔の影を濃くして、「そんな…ココさんまで…」肩を落とす。トリコはと言うと、数メートル先にあるドリンクバーでピッチャーに並々と満たされたビールを持ち帰って来るところだった。
ココは取り敢えず、愛想笑いで返す。
「いや、本当に小松君の事を言ったんじゃないんだ。ただ少し……考え事をしていてね」
だから、おかしい。と思ったのは別件だったのだと説明をしたけれど。ココが言い淀みつつ口にした"考え事"と言うフレーズに顔を上げた小松と、眉を寄せたサニー。そして、なんだなんだと戻って来たトリコに、そこを突っ込まれるのは今、少し面倒だった。 十中八九、のろけだと囃し立てられる。
適当に濁してしまおう。
「大した事じゃ、」
「考え事ってココ、なんだ?まーたエロい事でも考えてたのか?」
大した事じゃないよ。と、ココは言いたかったのに。小松の後ろに追い付くなりニヤニヤと笑いビールを煽るトリコに阻まれた。それも、全くもって品の無い台詞で。一瞬でココの表情が固まる。ひくん、と。こめかみが痙攣した。この、酔っぱらい。
「もートリコさん何言ってるんですか」
顔を引き攣らせるココに代わって、小松がすかさずトリコに反論した。
「ココさんはそんな事考える人じゃないですよ!」
小松にとってココは、物腰が柔らかく大人で優しい、如何わしい事とは無縁の紳士なのだ。ココは思った。小松君。フォローをありがとう。
「いーや小松。こいつはな、こう見えてすんげーむっつりスケベなんだぜ。俺等の中で一番なんじゃねーか」
トリコは小松に肩に腕を回し、内緒話候の格好を作っていたが声のトーンはいつもと同じだった。だからばっちり、ココにも届いた。まったまたあ。と、小松がいまいち信じていないのがココには救いだったけれどまだ、小松に色々と吹き込んで行くトリコを見て思った。誰が四天王の中で一番だ。トリコ、後でシメる。
「あ。そいや前、クラルの項の付け根に…」
「サニーは黙ってろ」
何が。あ。だ。今思い出した、で言って良い事じゃない。
ココの、黙れ。と言う発言に、んだよ!なんで俺だけ!と捲し立てるサニーにココは、色々、例えば特異な毒とかポイズンとかを飛ばして説教をしてやりたかったが小松と、そして海上線路の行く先を見ている見物人と船首のデッキに設置されているリゾートプールの利用者で溢れる場所柄、
「お前達いい加減しろよ?此処が一体何処だか分かっているのかい?」
笑顔で、牽制した。
自分でも冷ややかな笑みと声色に成っていると思ったが別に良い。顔の右半分に毒を滲ませているのも、別に構わない。サニーが、まえ!それ反則だし!と言って、トリコが、まーまー。ココ。ジョーダンだって。と言って、焦りの電磁波をココに見せたからココは思えた。これで良い。何より小松がトリコに、ほらーココさん怒っちゃったじゃないですか!と、ココの肩を持ってくれたから。余計に、ココは思った。これで良い。
それにどうやら、ココ自身への興味も流されたようだから。
「分かってくれれば良いさ」
ココは冷ややかさとは全く正反対の、晴れやかな顔を彼等に見せた。
ギガホースに引かれてレールの上を進む為、船の形をしていても海洋は穏やかに、ただ線路から伝わる振動だけを水面に刻む。海鳥の声や白い雲の一つない快晴。穏やかな午後。
ココが彼等に晒したのはそんな今に相応しい笑顔だった。
本人の心中は相変わらず曇天だけれど。
こえぇ。と、肩を萎縮させてから再び前を歩き始めたトリコやサニーの後ろを続きつつ、ココは調子を整えつつ考える。庇ってくれた小松の為にも、場の空気を崩さない様に気を配った方が良いかもしれない。
気を遣ってか、小松がココの横に並ぶ。
「それにしてもココさん。髪伸びましたねー」
「そうかい?ターバンをしているせいか、自分じゃ気付かないよ」
「あー。でもそう言うもんですよね。ボクもコック帽被ってるからか周りに言われる迄……ってトリコさんまた飲んでるー!何杯目ですか一体!」
表面ではトリコの行動に笑い声を上げるが、それでも僅かに間が生まれれば、脳裏には数時間前から何度も掠める言葉が不意に浮かぶ。おかしい。奇妙だ。
何故か、クラルと連絡がつかない。
再度口元に持って来たドリンクのストローをココはくわえ、苦々し気に噛んだ。
あの時、ココは2回、クラルにコールを入れた。けれどどちらも暫くして留守番伝言サービスに飛ばされた。始めこそ移動の車内か飛行機の中だろうかと諦めたが、それにしては掛け直して来る気配がない。少し気になってもう一度、レストルームを利用するついでに繋げてみたけれどやっぱり通じない。
おかしい。
ココは何度目かしれない疑問を反芻させる。
クラルは休日であればいつも、直ぐにココに掛け直していた。少なくとも着信を残したら一時間以内。電車内等で出来ない場合はメールをココに送って、それからコールを寄越した。何よりもし飛行機を利用するにしても、クラルは搭乗前に連絡をすると昨日モバイルの向こうでココに言っていた。なのに。
なのにあれから、かれこれ三時間強。一向にココのモバイルが震える予感も、ライトを光らせる気配も見せない。
こんな事、今迄無かった。だって最近、クラルの臍を曲げた記憶はない。
――まさか……。
嫌な予感が頭を過る。ココの背筋に冷たいものが伝う。いいや。有り得ない。不安を一蹴するが、一度生まれた悪寒は肌膚にへばり付いた。
それにしても腹減ったなー。と、呟いて、サニーと小松の呆れを誘うトリコの豪快な笑い声が一瞬で膜の向こう側の出来事になる。もしかして……。
――もしかして、何かあったのか…?
「おい、サニー」
ココは、サニーの袖を引き寄せた。
「あ?んだよ」
もし不安が現実に起こるとしたら連絡がつかないのはクラルだけじゃない。と、ココは考えた。クラルは今、マリアと一緒にいる。双方との連絡が遮断されるべきでそして、マリアと付き合っているサニーも、気付いているはずだ。
トリコや小松に気付かれない様に、少し声を落とす。
「お前、ここに着いてからマリアちゃんと連絡とったか?」
訝しげにココを見上げるサニーの眉が、ぴくりと反応した。