対峙した
対峙した男の目が瞬いた。クラルの腰を抱いて居たその腕を体の真横へ引き、身を強張らせる。まさか自分の国の言葉で返されるとは思わなかったのか、それともココが放つ憎悪に近い悋気の燐光への恐怖か。ただ、困惑の波長を纏ったまま微動だにせず、意中の女性に寄り添う男性へ視線を寄こしていた。
ココは、暫く彼を見下ろした。
年若い男だった。とは言え、クラルと同い年位かもしれないから若いと言っても成人以上ではあるだろう。体格もそこそこに完成されている。
見ようによっては茶色に見えるブロンドで、目の色は少し暗い碧眼。のんびりとして見える顔つきから富裕層だと伺える。グルメ貴族の一席かもしれない。出身はその言葉からして北に位置する、半世紀前迄IGO非加盟国だった帝国だろう。
こんな場所でなく、また、クラルに目を留めなかったら、迫らなかったら、適当に場を濁したのに。というか、肩を押しただけに留めた自分を褒めてやりたいとさえココは思った。
本当は横っ面を殴ってやりたかった。
クラルの手前そんな野蛮は怖がらせてしまいそうで、出来ないけれど。(そもそも、対猛獣用に鍛えられたココの自力を怒りのままに震ったら、人の顎なんて簡単に砕いてしまう。ともすれば毒液を持つココの特質以上に、クラルは恐れを抱くだろう。目の前で予告もなく行われる暴力行為程、身を震え上がらせる物は無い)
やがて数秒の沈黙を置いて、まごついて居た男の口元が動いた。
けれど彼が何かを言う時にココは、腕に囲ったクラルへ視線を落とした。一応3秒は待った。それ以上は長過ぎる。
「大丈夫かい?」
クラルはココを見上げたまま、不思議そうな顔をしていた。
呆気にとられていると修飾しても違和感のないその表情にココはつい、苦笑したくなった。
会話を超えて、彼女の感情や言葉が視覚からダイレクトに中へ入り込んでくる時、いつも彼は温かくて心地良い気持ちになる。僅かな変化からお互いの心情を読みとれるのは電磁波を読む事よりも特別な気がする。そんなに驚く事かな、と思う今でさえその気持ちは変わらない。
「クラル?」
名前を呼べば、反応を見せて暫く後に、
「ココさん、」
小さな声が、ココを呼んで続けた。
「今……何と仰ったのです?」
その疑問に、思わずココは喉を鳴らして笑う。
「それ、この状況で聞く事かい?」
「それは…ですが……」
困惑しているクラルが可愛くて、ついさっき男の肩を押した手を一度身頃で拭ってからココは彼女の頬に、そっと触れた。指先で撫でる皮膚が僅かに跳ねる。
それでもクラルは拒否を示さなかったからそれは、反射的な動きだったのだろう。実際彼女は、当惑したままの下がり眉でココを見つめていてもその体からは、嬉しさと恥ずかしさが織り混ざった暖色の電磁波を滲ませている。
「クラル」
肌に触れるココの手に、その色が重なった。色に結びついた温度を感じた気がしたのはシナスタジアからの誘発だろう。電磁波は無意識下の感情に呼応しているから、その動きこそ、彼女の本音だと言えた。
ココは、クラルの顳かみに頬を寄せた。声を零すか零さないかの繊細な吐息が耳元に、僅かに届く。
「はい……ココ、さん」
クラルの手が自然と彼の肩口に寄り添う。思わずココは口の中でそっと微笑み、ヒールの高さ分だけ近くなった耳の付け根に鼻先を擦り付けた。
見慣れた、淡いベージュのスキンから花の香りが昇っている。
体温で際立つそれはしっとりと甘く、瑞々しさのある芳香だった。それが何の香水なのかココには分からない。初めて知る事項にはいつも僅かな焦燥を抱くのに、その中に嗅ぎ慣れた彼女の香りを感じて、それだけで、全て許せるとさえ彼は思った。
逃げ出した事も、きっと自分から隠れていた事も、男の強引な口説きも、自分以外の男性に彼女が抱き締められた事……は、相手に怒りを覚えれどクラルに落ち度は無い。惚れた女に、男は弱い。無事なら、拒絶されないのなら、全部どうでも良い。
乱れた髪を見つけ、そっとその耳の後ろへと整えた。小さな耳朶に、大振りのイヤリングが引っかかっている様子は近くで見るとどこか痛々しい。重さを確かめるようにその場所を掬い撫でる。その動きで、自然に顳かみへ唇を押し当てる。
肩に置かれた小さな手に力が篭る。テールコートの厚い生地を超えてかかる柔らかな圧は、そう言えば少し、震えている。
「すまない。怖かっただろ……」
囁きに、クラルの肩が強張った。反射的なのか、それとも考えて居た事なのか、クラルがココの首元に額を寄せて弱々しく呟く。
「……ありがとう、ございます」
鼻先に触れる香りが強くなった。ブランデーを注いだヴァニラにストロベリーを添えた様な芳香に、一瞬だけ視界が羽撃く。
ココは、クラルを抱く腕の力を強くした。そして、直ぐに、男へと向き直り、
「…………」
何か言いかけたが、止めた。
男の、思っていたよりショックを得ている顔に追い討ちを掛けるのが可哀想になった。と言うよりも、醸す電磁波がなんだか凄く、悲愴感溢れる色を迸らせていた。−−そう言えば一目惚れと言っていた気がするな。
てっきりただお遊びの相手としてクラルを選んだのかとココは思っていたけれど、案外本気だったようだ。絶望を滲ませる様相には僅かに、同情心を抱いてしまった。
それでも眉根は寄る。再びクラルへ向き直る。
「とりあえず……場所を変えよう」
クラルは、息を飲む様に顔を上げた。
思わず、いけません、と、言いかけた口を噤んだ。
けれどそれは、状況を思い出して声に出すのを憚ったと言うよりも、無意識の閉口だった。
自身を見下ろす、ココをクラルは見上げる。
深いグリーンのターバンから艶のある黒い髪が垂れている。その影を映す顔の整った肌理は少し日に焼けて如何にも男らしい。心許なく寄せられた眉間の皺、長い睫毛が添えられた目の奥の瞳は相変わらず綺麗なコントラストを滲ませ、知を持つ精悍な顔立ちがクラルに向かって微笑みかける。クラルが知っているココの癖で目尻に皺を見せて、大きな掌は庇護する様に恭しく肩を抱き寄せて、くれる。
――もう、どうして。
ココの姿に、声に、体に馴染んだその腕の力の強い事に体温に香りに、安堵を覚えている自分が憎らしく思った。自分が、本当に、浅ましくて矮小な存在になってしまった気分に当惑した。
まるで飼い馴らされた動物の様に、あっさりとココに寄り添ってしまいたくなる。ついさっき、ココから逃げたばかりのに。四天王として行動している彼の迷惑にはならないと、思って、でも本音は小松に指摘された通りでクラルは、怖かった。ココに拒絶されるのが。好きな人に好きと臆面も無く伝えて受け入れられる今が消失するのが怖かった。
それなのに、今、クラルは安堵している。ココに助けられて、ココに抱き締められて、ココの、変わら無い優しさに、ほっとしている。
背中からじりじりとした熱が立ち昇る。
男の厚い手に包まれている肩が、ずっと熱い。それが心地良くて、このまま全てを有耶無耶にして欲しいなんて身勝手が首を擡げる。その事に、クラルは絶望する。−−……どうして私は、いつも、自分の事ばかり……。彼に、彼と向き合うと、決めたのに。
クラルは眉を寄せたままココを見詰め立てた。それは殆ど泣きそうな顔で、彼の怜悧な瞳を真っすぐに、見上げる。
ココは、顳かみを僅かに動かした。クラルにかかる波長の色相に濁りが混ざるのが見え始める。この変化にココは見覚えがあった。ほんの少し前に、遠目で捉えたあの時の、波長の流れ。
いつもよりほんの少し明るい唇が、何か伝えたそうに少し開く。その隙間から柔らかい舌が覗く。ココは喉元を、僅かにつり上がらせた。
「……あの、」
「行こう」
言葉を遮った。クラルへ回り込む様に肩を抱き直し、クラルの言葉も待たずココは歩き出す。
「ココさん」
鼓膜を撫でる声に、愛しさを感じた。いつもならその呼び声には立ち止まって、言葉を促す。けれど、今日は、無理だった。
「あの、私、貴方に、」
「話は後で訊く。今は、場所を移したい」
無簡素な声だと、自分でも自覚した。
視界の下側に漂っている波長の揺れが一瞬大きくなり、「……ココ、さん」その声色と共に萎む。
ココは、今自分が、彼女の心を追い込んだ事を知って、眉間の皺を深くした。