こんな、ココさんだけでなく彼の、大切なご友人にまで気を遣わせて、私、本当に……情けない。自分自身に対する絶望が湧き上がり、クラルは口元を結んだ。拍動する胸の奥に、痛みが篭る。
今の状況は、とても良くない。と、彼女は分かっていた。幾ら感情の整理が付かないと言ってもこんな、人に任せきってしまうのはそれこそ、自分らしくない。それよりもクラルは自分で自分が許せなくて、こんな私じゃココさんの横に立っていられない。とさえ、思い始めてきた。
その感情を握り締めた時、彼女は小松を引き止めようと思い直した。告げるべき言葉を胸に用意する。私、彼にきちんと向き合います。もう、大丈夫です。
甘えたいと、思ってしまったがきっとそれはとても、良くない事。クラルは、意を決した。
顔を僅かに伏せて、でも直ぐに上げる。
声を出そうと口を少し開いた。その時、小松が廊下に出た。途端、その小柄な体制が崩れたのをクラルは見た。目の前で何故か、小松がつまづいた。
「うわあ!」
「―――あ、」
小松さん……!口から出掛かった言葉が「おっと」小松の体を抱きとめた、目の前のコーナーから伸びて来たとても見覚えのある腕とその声、そして、不意にクラルの背後から、右横へと現れた人影の存在で引っ込んだ。
「大丈夫かい?小松くん」
ココの声を拾いながらもクラルは思わず、右上へと視線を上げた。
ブラックタイ姿の、男性が居た。
色素の薄い肌と短いダークブロンドヘア、そして紫の混じった濃いブルーの瞳を持ったすらりと背の高い男性が、微笑みを浮かべて立っていた。
彫りの深い顔立ちで、でも年はクラルと近い位に見える。目が合うと、嬉しそうな顔で人懐こっく笑う。――知り合いの方、だったかしら。
クラルは直ぐに記憶を遡った。学生時代の交流試合、マリアに手を引かれて行ったボール、自社の同僚……しかしどれも目の前の異性の姿は見当たらなくて、首を傾げる。
困惑しているクラルの顔を覗き込み、その人が笑みを湛えたまま声を掛ける。
耳慣れない言語だった。それでも挨拶をされたのは、何となく分かった。あ、通行の邪魔だったかしら。思い至って、軽い会釈と共に一歩壁際に寄る。失礼を詫びようとも思ったけれど、自分が使っている言葉がこの男性に通じるとは思えなくて、愛想笑いで身を引いた。(これには、ココと小松の会話が聞こえている距離と言う事もあって、声を出しづらかったのもあるけれど)そうしたら、何故か男性も一歩、クラルに向かい踏み込んで来た。
にこにことしたまま自国の言葉で何かを話しかけて来る。ヴィ アジーン? 控え目でも強調して発せられた言葉をなんとか耳で拾った。
映画かドラマで聞いた覚えが有る気がする。けれど、何を言っているのかクラルにはさっぱり分からなかった。男性は低い声で言葉を囁きながら距離をつめて来る。
オードトワレを振っているのか、生地の良いタキシードから舶来品の香りが漂ってくる。相変わらず何か言っている。でも、分からない。
追いつめられたクラルの背中がぴったりと壁にくっついた。男は変わらずニコニコと、クラルの前に立っている。言葉は分からない。けれど、状況は分かって来た。
男がその指先を、自身の肩の輪郭へと伸ばしてくるのが見えてクラルは、意を決した。
「あの、困ります」
声量は控え目に、それでもきちんと男性を真っすぐに見上げて、言い切った。パーソナルスペースを誇示する為、クラッチを胸元で抱えでも距離を作る。
男の顔がきょとんとした。と、思ったらまた人懐こく笑う。カカヤクラシーヴィア。
やっぱり、何を言っているかクラルには分からない。
でも今自分は、目の前の男性に口説かれている状況と言う事だけは分かってきた。本当は分かりたくないし、とても逃げ出したい。と、逃走の手段を模索していたら彼から薫る舶来の香りの中にアルコールの香りが、微かに混ざって居るのに彼女は気づいた。あ、酔って気が大きくなっていらっしゃるのね。そうと気づけばクラルがするのはたったひとつだ。
意思疎通できないのなら、態度で表すしか無い。
「失礼します、」
迫って来ている男性の胸を押して、その囲いを抜け出そうとした。ニ ハギィ。なのに、また何か言って、二の腕を掴まれた。予想外の体温に、クラルの背筋が粟立つ。
「あの、」
ティアバヤーディリニャ。振り返ると何か言われた。当然、言葉の意味は分からない。正直聞き取っている音が正確な物なのかさえ怪しい。
「離して、」
離して下さい。と語気を強めて口に出そうとした。けれどその全てを言い切る間もなく、男がクラルを引き寄せた。
体が予想していなかった動きに驚いて、慣れないヒールを履いた足がもつれる。クラルは、小さく悲鳴を上げた。
∵
その声に始めに気づいたのは、小松だった。え?悲鳴? 耳に入って来た音の意味を汲み取った瞬間、ココへの会話が途切れる。ココも、気づいた。
「今の……」
呟いて、小松から顔を上げる。小松もココから一歩後退して、先ほど迄自身がいた場所へ目を向けた。向けて、「うわっ」ちょっと叫んだ。ココが小松が引いた一歩を詰める。
小松が伺う視線の先、ついさっきまで会話をしていた薄暗い通路の奥側にクラルと、見知らぬ男性が居た。悲鳴はクラルの物だったのか小松には分からない。ただ、今しがたまで相談にのっていた女性が、男性に抱き締められているその姿が、小松の目に飛び込んで来た。
背も容姿も、ココ程でなくても高く、整っているのが横顔でも分かる程の人だった。その腕の中に、クラルが、ココの恋人である筈の女性が収まっていて思わず、目を瞬く。
え?え?クラルさん……、え?小松は頭をフル回転させた。ちょっと目の前の状況が信じられない、と思っていたらクラルが動いた。
男の腕から顔を上げて、少し乱れた髪を耳に掛けると同時に体を起こし、その人から飛び退くように距離を取った。すみません。小さな謝罪が微かに聞こえた。それで小松は合点がいった。あ、転けたのを受け止められたのか。あーなんだ。そうだよなあ、クラルさんがそんな事する筈無い……。
胸を撫で下ろそうとしたその時、男性がクラルに向って動いた。離れたクラルの腰を、小松からは見えない方の手で抱いて寄せる。小松は再び目をひん剥いた。
微笑みを浮かべた男の横顔が何かを話しながらその右手を、クラルの頬へと伸ばす。小松の耳に男の、聞き慣れない言語が届いた。クラルは男の行動に困惑して、本当に止めて下さい。と、体と言葉で抵抗を現して居る。でも、その背中はもう壁に阻まれて、退路が無い。小松は、気づいた。
クラルさん、ナンパされてる……。
そして当然ながら、凄く困ってる。困っているのに相手は気づいていないのか、イヤヨイヤヨもと思っているのか、強引だ。
ふと男が少し思案して、口を開いた。
あなたとてもセクシー、わたしはさっきあなたに、一目惚れしました。
その言葉は小松にも分かった。クラルもそれは分かったのか、目を見開いて驚いている。そして直ぐに、すみません私、彼がいますから……。と、絞り出すような声が聞こえたのに男性は不思議そうな顔を覗かせて、実は入場の時に心を奪われたのだと、その時に伴っていたのは女性だったでしょう。と、告げた。そして、にこにこと嬉しそうにクラルの手を取って、こんな場所で会えると思わなかった。急に驚かせてごめんなさい。と、可愛い貴方に嘘をつかせた自分を許してほしい。と、グローブをはめたその手をさっと取ってその甲に、キスをした。
クラルの顔が青ざめる。唇が反射的に音もなく、いや、と動く。
小松は思った。ヤバい、助けなきゃ。この人、ちゃんと恋人が居ますからダメですよって、言わなきゃ。勿論それで上手くいくかなんて小松には分からない。かなり執念のある人に見えるからもしかしたら、こんな小さな自分じゃ不足だと何の役にも立たないかもしれない。でも、助け舟は出せる筈。と、彼は一歩を踏み込んだ。
その時、肩に手を置かれた。
ずっしりと大きな手の感触に小松は、はっとした。
そう言えば、ココさん、居た。
「……小松くん」
小松は、その低い声に、見上げるのを一瞬戸惑った。その声量はいつものココより小さくて、明らかに小松だけに聞かせる為の物だったけれど、小松にしたら初めて聞く声だった。
「悪いがトリコに、僕は先に戻ったと伝えてくれないか」
言葉は、尋ねる風だったのにその音は、有無を言わせない響があった。低く、静かで、心の芯を酷く不安にさせる音。小松の体が、無意識に震える。
「ココ、さん……」
「頼んだよ」
小松の肩へ置いた手に一度だけ力を込め、ココが一歩を踏み出す。肩から手が剥がれる。そこでやっと小松は、ココを見上げた。
仕立てのいいテールコートの裾が目の前で翻る。ボディラインがスタイリッシュに見えるよう計算して作られていても、強靭さが伺えるココの巨体が、小松の横を通り過ぎる。
その一歩は2mの背丈に相応しく颯爽と、息を飲むより先に通路の奥へと進んで行く。小松は、ココの背中を見つめつつ戦慄した。
小松の身長は、155cm。ココとの差は45cmと、それなりの距離もあって、通り過ぎたココの表情を、横顔であっても伺う事は出来ない。
それなのに、しかも別段寒い場所でも無いのに小松は、再び身を震わせた。ココが居た右側の皮膚には、さっきから鳥肌が立っている。
∵
ココは硬く拳を握った。離せ。心中で何度も何度も繰り返す。離せ、誰に、触っている。対象に毒液を狙撃してやりたい気持ちで、奥歯を嚼む。僕じゃない男が、その子に、クラルに、その肌に触るな。全く見ず知らずの男の手がクラルの腰に回されて居る光景に、ココは理性がブチ切れるかと思った。だってその腰は丁度、クラルの肢体を包むイブニングドレスの布地が無い、つまり素肌だ。
今迄、ココ以外の男性が触れる事なんて出来ない場所だった。それなのに。あまつ男は、身体を寄せ合おうとしている。離して下さい。と、クラルが言っていても聞かない。
噛み締める歯の奥に、ちりりと焼け付く味が生まれて来た。その味をココは良く知っている。激しい怒りを抱いていても皮膚に滲んで来ないだけ我ながら成長したと、彼は賛辞するが、それで当然怒りが収まる事は無い。
「本当に私、正式にお付き合いをしている男性が居ますから」
クラルの声が明瞭になって来る。困惑と、怒りの混ざった横顔、そしてその声に乗る言葉。それが辛うじてココの嫉妬を緩和させる。それなのに男はクラルの言葉がわからないとでも言う様に微笑み、あなたの声とても美しい。なんて口説く不躾者の笑顔に、殺意が湧いた。通じていないかも知れない事を逆手に取っているとしか、ココには思えない。
ココは心中で苦々しく罵詈を吐き捨てた。畜生。初動が遅れた自分を罵った。
耳に入り込んで来た悲鳴がクラルの物だと、彼は直に分かった。だから直に通路奥を覗き込んだ、そうしたら、クラルが、知らない男の胸にしなだれる様に、抱きしめられていた。
想定外の光景にココは、その状況に対して理解が追いつかなかった。血の気が引いた。おい、クラル、誰だそいつ。ああ、そう言えばこう言う会はシングルをシングルに引き合わせて勝手にパートナーにしてしまう人が居たりしたな……え。まさか、いや、まさか彼女に限って、そんな事受諾するわけがない。あり得ない、止めてくれ。その後の光景で、クラルはただ足をもつれさせただけだと気づいたがココは、衝撃を受けた回路の修復で全てがテンポ遅れだった。正気に戻ったのは、自分の存在を暗喩するクラルの言葉。そして、いけしゃあしゃあと、クラルの手にキスをした男の行動。
腑が煮えくり返る、を、ココは実感した。
床を踏み抜かんばかりの力強さで、革靴に包まれた足を進ませる。自然、足音が立つ。その音に、クラルが気づいた。
「――――あっ、」
自身を認めるクラルの姿に、安堵が沸き起こる。いつもより濃いアイシャドウやマスカラ、けれどいつも通りに真っ直ぐココを捉えるオリエンタルの虹彩。
だからこそココは、そんな愛しい彼女へと迫っている男の存在に、顔の険しさを止められなかった。
男がココへ視線を投げる。それが交差するより早く、最後の一歩を踏むと同時に男に手を伸ばす。自分の肩の位置より低い位置の肩を強く掴む。手の中で感じる男の骨が軋んだ気がするがそんな事、今は構う余裕なんて無い。男が覗かせた苦悶の顔には寧ろ、自業自得だ。と、そのまま彼を強引に数歩後退させる。
そうして自分でこじ開けた隙間、つまりクラルの前へその身体を割り込ませた。男を見据えたまま、海馬から引き摺り出した男の言語を口にした。
『失礼、』
言葉を発すると同時に片腕で、ココの行動に動揺を見せるクラルを引き寄せる。その右胸に少し強く囲い込む。剥き出しになっている彼女の肩を、背中から回した腕の掌で包み自身を盾に、男からクラルを隠した。
『僕の女性に、何か?』
口元には笑みを浮かべて、ゆったりと品良く、ココは告げる。
それでも男を見下ろすその眼光は完全に、獲物の生死を決める美食屋のそれだった。